■ 2003年7月,8月,9月
おめでとうございます。画像が多いので、別ページで。 >>>■
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ドッジボールができなかった。 小学生の頃の話。昼休みの定番といえばドッジボールで、給食が終わるなり運動場へ出て、地面に足でラインを引いて、「グーパー」なり「ウラオモテ」なりでチーム分けをして、ゲームを始めるのだった。男子も女子も関係なく。リーダー格の男子の号令のもと、外野が配置され、内野に布陣がしかれる。ゲーム開始後にも次から次へとメンツは増えて、どちらかのチームに飛び入りしてボールの投げ合い、ぶつけ合いにわあわあきゃあきゃあ。 その流れの中に、僕は入れなかった。 そもそもドッジボールが苦手だった。それ以前に、「みんなで遊ぶ」ということ自体が苦手だった。いやちょっと違うな、なんというかほんとに苦手だったのは、「みんなで楽しく遊ばなければならないという雰囲気」であった。 「みんなで」いるといたたまれなくなるし、その中にあってはとても「楽しく」過ごすことはできないし、なにより「遊ばなければ」と強いられることが嫌いだった僕が遊びの輪の中に入るには、結構な決意と緊張と覚悟を要するものだった。で、その遊びの象徴として、ドッジボールがあったわけだ。自然、距離を置くようになるというものであろう。 だから僕は、昼休みをひとりで過ごすことが多かった。教室なり図書室なりで。ぼーっとしたり本を読んだり。こうして過ごす昼休みの45分は途方もなく長く感じられるので、早く掃除の時間に、そして5時間目に、ならないものかと思っていた。みんなでいるのは苦手なくせに、ひとりで手持ち無沙汰を貫くこともまた、それはそれで苦しいものであった。 そう、ひとりでいることは苦しいので、たまにみんなでいることの安堵の中に身を投じることもあった。誘惑に負ける。小学生の心はそんなに強くない。気まぐれに友だちのあとにちょこちょことくっついて運動場に出て、ドッジボールの場までは顔を出すのだった。 けれどやっぱりドッジボールをするような気にはならないので、僕は「見学」することにする。体育じゃあるまいし、なに昼休みのドッジボールを見学してんだよと今ならば思うところであるが、当時の僕にはそれが精一杯だった。ドッジボールを、見学。ラインを越えてボールが飛び交う中に入ることは、すごくすごく遠いことのように思われた。小学校6年間ずっとそんな感じだったために、ドッジボールのゴムの感触は決して手に馴染むことはなく、たまに体育で触る時にいつも新鮮な手触りを僕に与えた(その体育だってしょっちゅう休んでた)。 6年間でたった一度きりの「昼休みのドッジボール」を、よく憶えている。 それは僕にとって最初で最後のドッジボールだったわけだが、と同時に最後の昼休みでもあった。 小学6年の3月。3学期も残すは卒業式のみというところだった。その日は最後の授業の日で、すなわち普通に昼休みが与えられる最後の日であった。 「最後の昼休み」という意識に、周りはどうも落ち着かない様子だった。最後の昼休みを存分に満喫してやろう、という意気込みに満ちていたように思われた。そして最後の昼休みを飾るにふさわしい遊びといえばやはりドッジボールであった。それはもう自然発生的に、「ドッジボールをするぞ」という暗黙の了解事項が成立していた。そのくらいは僕にも感じ取れた。 最後ということで、僕もいくらか感傷的になった。「ずっとドッジボールをしてこなかったなあ」と思った。そして「最後くらいはやってみたいなあ」という気になった。劇的で画期的で奇跡的なことだった。 昼休みに突入し、いつもより早足で駆けてくみんなのあとに、僕もついていった。運動場に出て、いつもならここで少し距離を置くところだったが今日はチーム分けの輪の中に加わった。周りがちょっとざわめいた。 「おおっ、入ると?」 「すげーすげー」 「初めてっこつね?」 そんな言葉が投げかけられた。たかだかドッジボールに加わるだけでトピックになる。それだけ徹底して避けていたってことだ。僕はあらためて自覚した。 ゲームが始まる。体育の時とは全然ちがった緊張感がある。ボールをよける。ボールを受ける。すべての動作がぎこちなかった。何度かボールをキャッチできただけでも殊勲ものであった。周りもどよめく。投げ慣れていない僕の肩から放たれるゆるいボールは、たいした驚異も与えずに相手の手の中にすっぽりと収まる。それが悔しかった。「悔しかった」という感覚を得られたことは、なんだか照れ臭くもうれしかった。 やがて僕はボールの餌食になり、外野に出た。外野からの眺めもまた新鮮だった。早い話すべてが新鮮だった。6年目にして、初めてドッジボールを身近に感じた。 数ゲームをこなして、45分はあっという間に経過した。45分とはこんなに短いものだったのかと。昼休みが終わってしまうのはこんなに寂しいものだったのかと。 ところが、昼休みの終わりを知らせる音楽が鳴り出さない。 みんな、「あれ?」と思っていたようだった。「まだ遊んでていいの?」と。そこに放送があった。 「本日の昼休みは15分延長します」 他になんの説明もなかった。それは6年生の最後の昼休みを、少しだけ延ばしてあげようという学校の粋な配慮だった。他になんの理由も考えられなかった。みんなそう解釈して、大喜びでドッジボールを続けた。僕も喜んだ。昼休みが続くことを、喜んだ。 この後のことは憶えていない。延びたとはいえたったの15分、終了の音楽は鳴り出しみんな教室に戻り、掃除を始めたのだろう。5時間目、最後の授業を迎えたのだろう。この、小学校最後の授業を、僕は憶えていない。記憶にとどまったのは、最後の昼休みのことだった。あんなに嫌いだった、昼休みのことを。 小学校を卒業して中学に上がると、昼休みにドッジボールをする者なんて誰もいなかった。黒い学生服にドッジボールは似つかわしくないらしかった。昼休みはサッカーをしたり、宿題をしたり、タバコをふかしたりする、そんな時間に変わったらしかった。 ずっとドッジボールを避けてきたことを、僕は後悔しているわけではない。むしろ、だからこその鮮烈な印象が残ったのだと、思っている。 |
古い話ですが、そろそろ書き留めておかないと記憶が風化してしまいそうなので、書いときます。長いので別ページで。 >>>■
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事件は、JR新宿駅南口で起きました(会議室じゃなくて)。 新宿駅南口には定点カメラが設置されていて、全国ニュースで近辺の映像が放映される機会が多くありますので、一度は目にされたことがあるかと思われます。 会社からの帰りにこの駅を利用している僕は、そこで事件に遭遇しました。 テレビカメラ。 中継車。 人の群れ。 なんだこれは。 すわ爆発物かストライキか人身事故かと、野次馬根性がにょきにょきと芽生え、僕は改札への歩を早めました。 人の群れの最外縁に結合し、何事か何事か? と、周囲の声に耳を傾けます。そこへ駅員のアナウンスが。 山手線は落雷の影響により、全線で運転を見合わせております。復旧にはかなりの時間を要することが予想されますので、他在来線、私鉄、営団地下鉄等での振り替え輸送にご協力をお願いいたします。 なんてこったい。 帰れません。 たしかに今日の午後6時過ぎから7時にかけての豪雨および雷は、これでもか! これでもか! と言わんばかりに地表を撃っておりました。退社後、「電車に影響あるかもなあ」と思いながら駅へと歩いていましたが、まさかその悪い予感が的中しちまうとは。一日の仕事を終え、蒸し暑い中汗だくになりながら帰路につき、さあ家に帰って休息を、と思っていたところにこの仕打ちですか。神はドコニイマスカ。 さてどうしよう、と思案します。しかし冷静になって考えてみるに、僕が利用するのは新宿―高田馬場駅間、たったの2駅ですから、同じく足止めを食らっている他のみなさんに比べて、状況としては遥かにマシなのです。打開策はいくらでもあります。 1.家まで歩く。 2.バスで帰る。 3.西武新宿線で帰る。 検討中……(ポク、ポク、ポク、ポク……)。 ……チーン! 解。 1.→めんどくさい。 2.→多分混んでる。しかも渋滞。ヤダ。 3.→まあ、妥当。 ……ムダに改行するまでもない結論ですがまあいいです。とにかく西武新宿線で帰ることにしました。この西武線も改札で入場規制がかかるなど(山手線等からの乗客が大挙流れたため)、電車に乗り込むまでやたらと苦労しましたが、なんとか乗車し、帰宅。『トリビアの泉』に間に合いました。わーい(子どもか)。 ちなみに山手線が復旧したのは午後9時半、僕が「トリビアの種」で「日本で一日に切られる髪の毛の長さ」の総計を知り、「へえ〜」とか言っちゃってる頃でした。帰宅のラッシュアワーを直撃。足止めや振り替えで帰宅に多大な時間を費やした仕事帰りのみなさん、お疲れさまでした。 |
作家・北村薫先生に、インタビューしてきました。 前に「公私混同」について書きましたが(030723)、本件こそ、その最たるものと言えるでしょう。必死こいて社長を説得してゴーサインを得て、各方面からのアプローチを試み、接触に成功してアポイントメントが取れた時の嬉しさといったらもう(カタカナ語だらけ)。 トークショー、サイン会等で何度もその姿を拝見したことはありますし、いくつかの質問を投げかけたこともありますが、こうして仕事で面会し、言葉を交わす機会に恵まれるとは。 インタビューに備えて、『リセット』(新潮文庫)を再読しました。この作品に関連する質問も考えていたのです。仕事としての緊張感と、プライベートな高揚感。交差した2つの感覚を抱えながら、この日を迎えました。 会場は、新潮社本館。打ち合わせの合間に、時間を割いていただきました。1年半前には就職活動で訪れたこのビルに、当時とは全く異なる心境で訪れることとなりました。部屋に通されるまでの間に、あの日順番待ちで座っていたソファを横切り、面接で見事玉砕した一室の前を通り過ぎました。 むふふっ、ひゅっ。 仕事を忘れて、思わずにやけてしまいます。これはアヤシイ。何と申しましょうか、「江戸の敵を長崎で討つ」というものでしょうか(合ってるような違うような)。あああっ、新潮社さんに対して恨みがあるわけではございません。そんなめっそうもない。大変お世話になりましたでございます(へこへこ)。 インタビューに与えられた1時間は、「もったいない」と思う間もなく過ぎました。北村先生には、いつものごとく、作品に漂う空気のごとく、穏やかに、にこやかに、言葉を選びながら、お話しいただきました。事前に目論んでいた、「あわよくば仕事を離れて、興味本位な質問もしちゃったりなんかして」という企ては、消え去っていました。そんな無粋なことは許されぬ雰囲気があったのです。 緊張と高揚から解放されて、弛緩した表情で新潮社を辞す僕。何だか、「オラ、仕事をやり遂げただ感」があります。おなかいっぱいです。これで、明日会社を辞めることになっても悔いはありません(いや、せめてインタビュー記事が掲載された媒体が発行されるまでは粘りたまえ)。北村先生、本当にありがとうございました。 |
僕には、先輩社員がいませんでした。 飛び込んだのは入れ替わりの激しい業界であり、入ったのは小さな小さな会社です。入社時には、同期入社の社員が1名、いたばかりでした。それも僕と同様に未経験ということで、スタートラインは同じです。よって仕事は、「先輩社員」というありがたき緩衝材を間に挟むことなく、社長からダイレクトに仕込まれることになりました。 1年と少しの間に、多くの社員が入社し、それと同じ数だけの社員が辞めていきました。ほんのひとときでも「同僚」になった社員それぞれには、さまざまな経歴がありました。編集プロダクションに在籍していた人とか、フリーでライターをやっていた人とか。いずれ劣らぬ個性的なメンツで、僕も学ぶところ多かったものですが、学び切る前に社を去ってしまうことになるので、残る僕としてはいつも複雑な心持でした。 業界内では先輩にあたる人々を相手にして、社の中では僕が先輩ということになりますから、仕事を教えなければならない、そんな微妙な人間関係が、そこにはありました。たとえば20も年齢が上の人から敬語で話しかけられ、僕も当然のことながら敬語で応じ、仕事を説明するという、どうにも曖昧な距離感です。ここで僕が「やだなあ、敬語なんか使わないでくださいよ」という意思を、言葉ででも態度ででも伝えることができていたならば、少しはこの違和感も解消されていたのかもしれません。しかしあいにく僕に、そういった器用な振る舞いはできませんでした。 そんな僕に、本当の意味での「後輩」ができたのは、この5月のことです。 僕と同じ年齢の、僕と同じような経歴をもった彼の、入社後数日の所作は、ちょうど1年前の自分を思い出させる、実にぎこちないものでした。「ああ、僕もこんなんだったなあ」と、懐かしくも恥ずかしくも、当時の自分を思い起こさずにはいられませんでした。彼に教えるべきは仕事だけではなく、電話の応対、原稿やデザインやイラストを依頼するときの言葉づかいといった、基本的なところからはじまりました。 ここで戸惑ったのは、僕自身です。「先輩」から教えられた経験のない僕が、突如「後輩」をもつこととなったのです。そもそも昔から「先輩―後輩」的な関係性が苦手で、避けてきた部分があります。1年あまりのキャリアで、一体何を教えられるというのか。「先輩として」何ができるというのか。自問しながらほんの僅かな知識と経験を総動員して「編集の何たるか」について伝授している姿は、滑稽ですらあったことでしょう。 しかし、ほぼ同じ立場、ほんの少しだけの先輩だからこそ、与えられるアドバイスというものがあることに、やがて気がつきました。1年前の自分が、何を知りたかったか、何が不安だったか、思い出しながら助言していきました。キャリア30年超を誇る社長ではできない教え方をしようと、心がけました。 教えることは昔から、苦手でした。向いていない、と思っていました。教育学部に籍を置いていながら教職課程を履修しなかったのは、自らの適性を考慮してのことでした(開放性の教育課程とやらを実施していたので、そういったことが可能でした)。ですが一度「せざるを得ない」状況に身を置くとどうにかなるもので、たどたどしいながらもわかりやすく、仕事を伝授をしてこれたのではないか、と思います。あくまで自己評価ですが。 そうして3ヵ月。僕にも先輩としての自覚がある程度根付きはじめた矢先、彼が辞めることになりました。 それはありていに言えばクビであり、せいぜい好意的に表現してみても、「話し合いの上での自主的な退社」でした。この3ヵ月、当時の僕にも増して四苦八苦しながらついてきていた彼を間近で見てきた僕は、少しの驚きはありながらも「やっぱりな」という思いが浮かんでくるのを否定できませんでした。社員が辞めていく、という事態に対しての免疫ができてしまったということもありますが。 仕事には、適性があります。また、環境との相性もあるでしょう。適性も相性も、せいぜい働き出して1年あまり、自身についての判断すらもまだ下せていない自分が語ることは非常におこがましいのですが、彼にとってこの仕事は向いていない、この環境は合っていないというのは、時々感じることでした。この感覚はそっくりそのまま自分に対しても折に触れて向けられるものですから、対象が他者に向けられて客観的な評価が可能な状況にあると、余計に増幅されるものなのです。 彼はあと3週間だけ社に在籍してから、僕の後輩ではなくなることになりました。同年齢の彼に対して何かしらの慰みを言うことは、侮蔑にも等しいことであるように思われるので、言うつもりはありません。心配することそのものも、彼の人生に対して失礼なことのように思われます。だから残りの期間もこれまでと変わらず、淡々とした先輩―後輩としての関係性を保ちながら経過していくのではないかと、予測します。淡白に過ぎるかもしれませんが、それしかできません。 ただ、彼が最後の勤めを終えて、後輩ではなくなったその瞬間に、どんな会話を交わすことができるのかは、少し楽しみにしています。 |
やっぱり神通力ってのは、あると思うのですよ。 『獅子心中』公開後のライオンズの戦跡: 2001年 13試合11勝2敗/勝率.846(シーズン通算勝率.521) 2002年 15試合13勝2敗/勝率.866(シーズン通算勝率.647) 2003年 14試合11勝3敗/勝率.786(シーズン通算勝率.570、8/19現在) やっぱり僕は、勝利の女神だと思うのですよ。 ホークスに、優勝までのマジックナンバーは点灯しましたが! ブルーウェーブの防御率が、目も当てられなくなっていますが!(関係ない) タイガースの相手はウチだコノヤロウ! くらいな気概で! 残りのペナントレースを、死力の限りを尽くし、闘い抜いていただきたい。 『Google』でトップヒットしてしまう、当サイトが応援してますので。
バランスをとるために、客観的なデータも載せます。
……強いなあ、ホークス。 |
名刺を増刷しました。 入社数日後にもらった100枚の名刺が、尽きたのです。 1年あまりで100枚は、早いのでしょうか遅いのでしょうか。 社長に訊いたら、「もっと早くてもいい」と即答でした。 「1日に3人、新しい人に会え」などと言われている業界です。 それでも、「1ヵ月もつのか」というところからのスタートでしたから、 健闘したといえるでしょう。 「名刺増刷お願いします」 と、出入りしている業者さんにお願いしたとき、 「おおおっ」と、ニヤリとされましたし。 昔、社会人同士の「名刺交換」の風景を見ていて、 なんだか儀式っぽくていやだなあ、と思っていました。 しかし実際やってみると違って。 渡すときの仕草で、社会人としての成熟度が測れる尺度であったり、 「まあ、無駄な自己紹介は抜きにして、仕事の話をしようや」 という言葉を代弁する応酬であったり、 その後の人脈を確保し保証するための道具であったりするのでした。 手元にある、いただいた名刺は、約80枚。 いつも「交換」するわけではなく、配り散らすこともあるので、 収支は合いません。 色々な名刺があります。 名のある企業、名のある大学の名刺ほど簡素で、 それが威厳を与えているのですが、 名のない企業、名のない大学、あるいは一個人が、 それぞれ名刺に凝らした工夫、込めた意思も見過ごせません。 新しい名刺は新しいケースに、 実に姿勢正しく収まっています。 その中から10数枚を取り出して、 入社祝にもらった名刺入れに入れます。 行方はまだわかりません。 |
8月13日放送、CX系『トリビアの泉』(※音が出ます)で紹介された、「トリビアの種」より。 ドラマ「北の国から」シリーズで 純は「〜なわけで」を52回言っている へぇ〜。 僕は実に良心的な視聴者で、番組観ながら「へぇ〜へぇ〜」言っているわけで。 ここで取り上げられているのは、「北の国から」における純くんの口グセ、「〜なわけで」でであるわけですが。 わけですが。 わけですね。 わけです。 ↑そんな僕も、この「わけです」が、クセなわけですよ(クドい)。 このことに関しては、過去にも書きました(011121)。僕には、文章上のクセがいくつもある、と。 再掲してみましょう。 -----011121の日記より抜粋 僕の文章中の頻出単語を列記してみます。 「うーむ」「要注意」「やっほう」「こっぱずかしい」「ちょいとばかり」「なんてこった」「いい加減」「もろやん」「ちょっと待て」「ぐはっ」「〜らしいです」「〜な感じ」「〜なんですけど」「〜なような気がします」「〜かもしれません」「〜してみようじゃねえか」「〜してるっぽい」「〜し過ぎ」「〜なわけです」「〜ではないでしょうか」 ----- ほら、あった。<「〜なわけです」 ここで思うのが、この僕のクセは、まさしく「北の国から」の純くんに由来しているんだろうなあ、ということなんですね。記憶をたどってみるに、この表現を使い始めたとき、どうもこの純くんの「〜なわけで」を心の片隅で意識しながら使っていたような。「北の国から」、一度もちゃんと観たことないのになあ。これもテレビの影響力大なり、ということでしょうか。それにしても「〜なわけです」をはじめとしたこれらのクセが、2年近く経っても一向に改善されていないのは問題だよなあ。だからこそのクセ、であるわけですが。 何回言っていようが、いいじゃないか。――タモリ |
連日の、愉快な挨拶による書き出しですが。 そもそも昨日の日記は、今日、これから書き出す事柄を主旨とするつもりでした。しかし書き進めるうちに、「同じ日の日記に盛り込むことは、無理」と、勝手ながらも判断したために、後回しにした次第。連日の『DRAGON BALL』ネタで、読んだことのない方にとっては意味不明かもしれませんが、そこはそれ、ご容赦ください。
さて、ピッコロ大魔王です。作品中、「ピッコロ」には、初代とその息子であるところの二代目とが、存在しています。現在一般的に認知されているのは、後者の姿であると思われます。まさしく「大魔王」然として、醜怪な造形をしていた初代と、親に似てはいるものの表情にはどこか知性の煌きが感じられる二代目とでは、もはや別物でありました。二代目ピッコロは、のちに孫悟空側(正義)に協力し、「より強大なる悪」との闘いに臨むこととなるのですが(少年漫画の王道)、自身の暗黒面との葛藤を抱えつつもオイシイところをさらっていく姿は、のちに「ベジータ」にその座を奪われるまでは確実に大きな存在感を示していました。 まあ、そんなマメ知識はさておき。 僕が問題としたいのは、その名前です。といっても「ピッコロ」ではなく、彼が初登場した当時、「大魔王」であることを悟られないために名乗っていた名前。 マジュニア。 この名です、この名。僕が長年抱えていた謎。 (この「謎」は、僕以外の人にとっては自明のことで、「謎」でもなんでもない可能性が大であることを、あらかじめお断りしておきます) 僕は『DRAGON BALL』をリアルタイムで読んでいました。「マジュニア」が初登場した頃には、小学5年生くらいだったでしょうか。「週刊少年ジャンプ」誌上でマジュニア初登場の回を読んで、僕はまずその名前に惹かれました。 マジュニア。 ミステリアスな名前です(と、当時は思いました)。「クリリン」「ブルマ」「ヤジロベー」、そして孫悟空のライバルとして登場したはずの「天津飯」と、鳥山明的センス満開の脱力系名前が並ぶ中で、この「マジュニア」という名前は、なかなかどうして切れ味鋭い響きがあります。「マジュ」にしても「ニア」にしても、語感がよろしいなあ、と。そう、当時の僕は、 マジュ+ニア=マジュニア という風に認識していたのです。以来15年間、この認識に何の疑問も抱かずに、過ごしてきました。
時を経て、2003年7月26日、午後7時過ぎのことです。 スーパーで食材を買った帰り道、フィギュアを集めるためにコカ・コーラを買っていたことも影響していたのでしょうが、僕は「マジュニア、マジュニア、マジュニア……」と、口の中で転がしながら歩いていました(このシチュエーションもどうかと)。 と、気づいてしまったのです。 あっ。 魔+Jr.=マ+ジュニア=マジュニア なーんだ。 謎、氷解です。「マジュニア」のネーミングもまた、鳥山明的センスの少しの応用編に過ぎませんでした。類例を挙げれば、『Dr. スランプ』に登場した、「Dr. マシリト」ということになるでしょうか。タネが割れたが最後、「マジュニア」という名前に感じ取っていた神秘性も、雲散霧消してしまいました。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とは、こういうことなのですね(違うような)。 ここで、問いたいのです。 僕と同世代の男子、おそらくは『DRAGON BALL』を時系列順に追っていた当時の少年たちは、僕が26歳になるに到ってやっと到達したこの解に、いつ到達したのか? ということを。それ以前に、そもそも誰もがすぐに気づくレベルの、謎以前のものとして認識されていたのか? ということを。ねえねえ、僕は、アホだったのかい? ということを。 問いたいのです。 takkaさん! 石井浩郎さん! もろやん! そこんとこどうなのよ? と。 問いたいのです。 ――おそらく、15年間気づいていなかった自分の不明を、より一層恥じることになるだけだとは思うのですが。 |
愉快な挨拶からスタートさせていただきました。このピッコロさん(得意技は魔貫光殺砲)は、ただ今キャンペーン中、コカ・コーラの500mlペットボトル1本に1個ついてくる、「DRAGON BALL Z フィギュアコレクション」の中のひとつなんです。 ペットボトルの上部に袋がくっついておりまして、その中にフィギュアが入っている、という寸法です。全21種類のフィギュアが用意されていると聞きます。小学生の頃、ご多分に漏れず『DRAGON BALL』を愛読し、プールの中で「かめはめ波合戦」を繰り広げた僕のノスタルジィを、絶妙にくすぐってくれます。 何せ袋を開けると、それなりに丁寧に彩色が施された身長5センチくらいの孫悟空が、クリリンが、亀仙人が、顔を出すのです。これは胸が躍るというものではないですか。その昔、同様のフィギュア・シリーズとしてコカ・コーラの「FINAL FANTASY フィギュアコレクション」や、ペプシ・コーラの「STAR WARS フィギュアコレクション」が発売された時には、たいして興味を示さなかった僕ですが、これは特別です。コンビニやスーパーで、食事のお供のドリンクを何にしようか? と、迷っている時にこれが目に入ってしまっては、ついつい手に取ってしまうというものです。 コーラ、苦手なのに。 そうなんです、僕、コーラ苦手なんです。炭酸苦手なんです。食事のお供にコーラなんて、考えられなかったことなんです。お供といえば、「お〜いお茶」だったんです。そんな僕をしてコーラを買いに走らせるとは、『DRAGON BALL』強し、と申しましょうか。身体のことを考えて、「ダイエットコカ・コーラ」にしていますが。ちなみに今のところ集まっているのは冒頭のピッコロさん(ギャグは苦手)を含め7体。個人的にはベジータが好きなので、彼をゲットするまでは集め続けようと思います。 ところで他の6体というのは、
微妙なメンツです。少なくともこの6人では、地球は救えません。次に引き当てるのがウーロン&プーアルやヤジロベーやミスター・サタンだったら、パーフェクトでしょう。
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今日は、大学時代に所属していた研究室の、前期納会であった。 修士課程を中途でやめてしまった僕にお呼びがかかること自体、ありがたいことだ。仕事上がりのため少々遅刻して会場に着いた僕は、先輩に、後輩に、そして恩師へと、ひとしきり挨拶を交わして席についた。2年前に同じく納会に出席した時(010729)とは、まったくもって環境も立場も変わってしまった。 恩師による乾杯の音頭が終わり、最初の料理に箸をつけようとした時、隣に座っていた先輩が唐突に言った。 「t.A.T.u .かよっ」 え。 僕に向けて発せられる、「t.A.T.u. かよっ」という文句は、他ならぬこれのことではないか。 でも、すっとぼけてみる。 「な、なんのことでしょう?」 「ってゆーか、DAKARAかよっ」 確定。 先輩、僕のサイトに来訪している模様(こんにちは)。 前々からそれとなく示唆されてはいたのだけれど、面と向かって言われるのは実にこそばゆい。 先輩、たたみかけるように、こうおっしゃる。 「お前、売り子やったんだってな」 「お前んちの布団、すげえな」 「アトム、かぶりすぎだろっ」 「愛媛と愛知を間違えるなんて、許せねえ!」(先輩は愛媛県出身) 「C力検査、100いかねーよ!」 先輩、あんた、マニアだ。 ふかわりょうばりのその突っ込み(誉めてます)。日記のみならず、BBSのレスにまで言及し、かつ実に細かい。 僕は基本的には自分がサイトを持っていることは大学方面の関係者には秘し、もろやんをはじめとするほんの少人数にしかカミングアウトしていない。 だが、この先輩は、ひょんなことから当サイトを嗅ぎつけてしまった。 ああ、卒業研究についてなんて日記のネタにしなければよかった。 別にサイトがバレてしまったところで、恥ずかしいことを書いているわけでもなく(時々書いてます)、キャラ違いなことを書いているわけでもない(サイトの存在自体がキャラ違い)。 だから恥ずべきことはないのである。どどーんと構えていればよいのである。恥ずかしがるもんか負けるもんか。 今後もいじられ続けるのであろう、ネタにされるのであろう。かと言って臆することなくこれからも遊び続けてやるぞ、ふんだ。 先輩、こんなもんでよろしいですか? |
「公」に向けて情報を発信する媒体を製作するにあたって、どれだけ「私」の部分を出すことができるか、その匙加減は、媒体の性質、記事の内容、読者の層によって、異なってきます。 原稿を書く場合に、目的が歴史的事実や研究成果などといった、揺らぎのない情報の伝達に絞られている場合は、集まった情報を取捨選択した上で、美しく整った日本語で、正しく過不足のない文章を、書くことに腐心しなければなりません。NHKのニュースみたいなものです。肩が凝ります。 これがたとえば民放の昼の情報番組のように、流行りモノや健康法などといった文化を紹介する、コラム的な原稿を書く場合には、気分はぐっと楽になります。先日は「中国茶」の紹介文を書きました。趣味嗜好の丸出しです。800字程度の短い文章ではありましたが、資料集めの段階から書いてる間まで、やたら楽しかったです。「これで『仕事』になるなら素敵だ」と。 こうした、一種の「公私混同」ができることは、この仕事の魅力のひとつであると思います。自分の興味の赴くままに企画し、取材し、記事を書くことができるのです(その企画が通ればの話)。入社1年超にして、やっと企画が通る率も上がってきました。これまでは門前払い連発でしたから。 現在、今年暮れに発行する書籍の一企画として、「遺伝子」にからめた内容のものを形にするべく、準備している段階です。自分が大学時に専攻していた分野であり、その経験が活かせそう、との軽い気持で提案した企画でしたが、これが通ってしまってあわてて昔の教科書参考書に目を通している次第。これが、滅法面白く読めるのです。学生時代にこれだけの真面目さと好奇心でもって勉強できていればとは、今考えてもしょうがないことか。 この企画が進行すれば、生物学で高名な先生とお会いする機会も持てそうなので、企画の詰めに張り切っています。 |
『僕の見た秩序。』というサイトに、こんなネタがありました。
これがツボにはまった僕は、自分でもやってみたくなりました。 やってみます。 森山直太朗「さくら(独唱)」を進化させてみよう! さくら(合唱) ―― にぎやか。 さくら(輪唱) ―― できるのかな? さくら(伴奏) ―― 歌、なし。 さくら(読書) ―― まじめ。 さくら(毒草) ―― しびれる。 さくら(縮小) ―― 見えない。 さくら(徳用) ―― お買い得。 さくら(欲情) ―― はぁはぁ。 さくら(凝り性) ―― 僕。 さくら(独身) ―― 僕。 さくら(独居) ―― さみしい。 さくら(独走) ―― どこへ行く。 さくら(トークショー) ―― 暗そう。 さくら(ドッグショー) ―― わんわん大行進。 さくら(トゥルーマン・ショー) ―― ジム・キャリー。 さくら(僕、 ―― フランスW杯。 さくら(僕、 ―― 双子。 さくら(僕、 ―― 逮捕。 さくら(どっこいしょ) ―― もうトシですか。 さくら(シャア専用) ―― 赤い。 さくら(の樹の下には屍体が) ―― 梶井基次郎。 桜坂 ―― 福山。 SAKURAドロップス ―― 宇多田。 さくら(どうしよう) ―― 知らん。 すみません、もうカンベンしてください。 |
十九歳の彼に、「よくやっている」と言うのはほめ言葉ですが、同じことをやっていても二十六歳に対する「よくやっている」は意味がまったく違うのです。 きたやまおさむ 「『十代の教祖』の死」
(『みんなの精神科』所収) 尾崎豊という歌手は、二十六歳で死にました。 死の前後、僕が中学生の頃、周りでは彼の音楽が盛んに流れていました。 彼の音楽がとくに好きでも嫌いでもなかった僕は、聴き、歌い、惚れ込んでいる友人たちの姿を、「ふーむ」といったスタンスで眺めていました。音はたしかにカッコいいけど、歌詞には別段共感するところはないなあ、といった感想を抱いていました。 十代に支持されていること、「十代の教祖」と呼ばれていることは、理解できました。思いを代弁してくれているんだろうなあ、とも思いました。ですが自分の心には、響きませんでした。同じ十代のど真ん中にありながら、少しの距離を置いて接していたんですね。 当時の僕自身が、冷めたヤツだったというのも一因としてありますが、それ以前にどうしても、「子供っぽいなあ」という印象をぬぐえずにいたんです。子供の立場から大人を糾弾する彼の詩が、背伸びしたい時期にあった僕の心をくすぐることは、ありませんでした。これが、当時の認識でした。 私たちが「あの人はいつまでも少年の心を持っている」というのと、尾崎の資質とは本質的に異なっています。一般の人が「少年の心を持った人」と形容された場合、それはその人のある一面にしかすぎません。(中略)それに対して尾崎はその人生のすべてで成熟を拒否し、子供であることを渇望し続けました。これでは周囲との折り合いがつくはずもなく、軋轢を生み、尾崎自身も苦しみ、破滅の道へと進むしかありません。 磯部潮 『人格障害かもしれない』
今は、少し違った思いを、尾崎豊に対して抱いています。高校3年生にして、アルバム『十七歳の地図』でデビューしたということ。彼の音楽が、確実に多くの人々の心を動かしたということ。このアルバムに収録されている、「I LOVE YOU」「15の夜」「十七歳の地図」「OH MY LITTLE GIRL」「僕が僕であるために」といった歌の数々が、この僕でも知り得るところのものであること。これらの事実に、素直に「すごい」と思えます。 ただこの感想には、注釈がつきます。すべては、「高校3年生にして」これらを生んだからこその、「すごさ」であるのだと。この背景を除去して、「すごさ」を語ることはできないのだと。 冒頭の引用に戻ります。十八、九歳で、「十七歳の地図」を歌う尾崎豊は、許容されます。ですが同じ歌を、二十六歳で歌うこと。そこには幾許かの違和感が、白々しさが、漂うように思われます。それは、社会が要請する、その年齢相応の振る舞いや考え方とリンクしてきます。二十六歳の成人が「盗んだバイクで走り出」してはいけないし(「15の夜」)、「夜の校舎窓ガラス壊してまわ」るわけにはいきません(「卒業」)。 二十六歳には二十六歳なりの、作品が求められてきます。二十六歳からは二十六歳なりの、作品が生み出されます。しかし尾崎豊の場合、周囲は彼にデビュー当時の音楽を期待し、彼の心は十八歳当時のままであることを望みました。しかし社会は、「本当に少年の心を持った人」が住みやすいようにはできていません。 社会が求めるものと、ファンが求めるものと、自分の心が求めるものとのギャップが、後年の彼の(一般的な価値観における)破綻をもたらしたのかもしれません。 ◆
以前、 「若いから」という理由で許される年齢なんだから、何でも思い切ってやりなさい。 と、言われたことがありました。この言は、一面では真です。何かをした結果に、「若いから」という評価が下されること、「若いから」という許容がなされること、これらは仕方がありません。しかし、「若いから○○をする」という風に、その出発点に「若いから」ということが免罪符的に置かれることは、少し違うように思われます。行為の主体の意識としては、「若いから」云々関係なく、とにかくやってみることが大切なのだと、思います。 僕は僕なりの、「二十六歳らしいこと」ができればと思います。 “三十にして立つ”ことはむつかしくても、三十までには、立つ基盤くらいは見つけて唾をつけておいてほしい。 阿刀田高 「七十にして矩をこえず――ことわざ考現学5」 (『ミステリー主義』所収) 而立まであと4年。 |
2003 :
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04-06
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