■ 2004年4月,5月,6月
なんでも全部やってみて、ああ、できないんだ、ってわかった瞬間って、わりとスッとするんですよね。悔しいっていうよりも。野球もなかなか上手くならんですよ。だけど実際に球を放ってみてやっぱり、「150キロなんてでないねぇ」ってことが面白いんですよね。 伊集院光 「伊集院光×木内一雅 無法<アウト・ロー>対談」 (『週刊ヤングマガジン』2003年11月24日号) ※ 小学生のころに住んでたアパートの前に広場があって、日曜日ごとに友達4、5人と野球をしていた。思えば当時の遊び方といえば、しばらくファミコンして飽きたら外に出て野球、そしてまた部屋でファミコン、この繰り返しであって、それなりにバランスがよかった。まあこれは本筋とは関係ない。 4、5人で野球ができるのか? というと、これができちゃうところが子どもマジック。2対2に分かれて攻撃側はバッターとキャッチャー、守備側はピッチャーと内外野すべて受けもつスーパープレイヤー、という役回りとなる。攻撃側のひとりがヒットを打って塁に出た場合、次なるバッターはキャッチャーも兼ねることになる。空振りしたボールを自分で拾いに走ってピッチャーに投げ返すのである。実に忙しい。そしてランナーが複数人出る状況になったら、必殺「透明ランナー」の登場。こんな感じでうまいこと「野球」ができてしまうのだった。 「じゃ今度、山田で」 とピッチャーが宣言して、阪急プレーブスの山田久志のフォームで投げ込む。バッターは、読売ジャイアンツのウォーレン・クロマティの構えでこれに対峙し、快音を響かせたもんなら「ゼッコーチョー!」と叫びながら一塁ベース(ということになっている、石ころ)の上を駆け抜ける。そりゃ中畑清だ。 プロ野球が、今のようにわけわからんことになる一歩手前の時代、まだヒーローはヒーローで、スターはスターだった。注目されたのは選手の人間性ではなくむしろ超人性で、伝説だとか神話だとかが高値安定を維持していた。プロスポーツはこれでいいんじゃないか、よかったんじゃないかと思う。 だから『小学○年生』とかいう類の雑誌にも、プロ野球選手のグラビアが載り、フォームの図解が載り、変化球の握り方が載っていたわけだ。僕らはこぞって特徴的なフォームをもつ選手のマネをし、流行りの変化球の握りをおぼえた。 そして、気づくのだ。ロッテオリオンズの村田兆治のようなマサカリ投法では、腰を痛めることに。読売ジャイアンツの桑田真澄のようなスプリット・フィンガード・ファーストボールは、投げられないことに。山田久志のようなサブマリン投法では、ボールはあらぬ方向に飛んでいき、見事窓ガラスを割ってしまうことに。 「できねえなあ」 「むずかしいなあ」 「ちっくしょー」 という気づきの瞬間に、僕らは鑑賞者としての立場に身を置き、「プロって、やっぱすげえな」という視線で、プロ野球を観るようになる。素直に楽しみ、好き勝手に批評を加えることができるという意味で、これはとても幸せな立場だ。 もちろん僕らとは違って、「おっ、ちょっとできるかも」と思う人もいるだろう。こういう人は中学で野球部に入り、プレイヤーとしての立場から、野球との関わりを続けるだろう。 まれに、「できる」と自信を深める人もいるだろう。こういう人は高校でも野球を続け、大学でも続け、社会人でも続けるだろう。さらにその中のごく一部、ついにはプロにまでなってしまう人は、「できる」と思い続け、自分を信じ続けた人、なんだろうと思う。 こうして、「できねえなあ」「できるかも」「できる」が、さまざまな場面で人を動かし、道を選ばせる。 いろんな人がいると思う。「できる」と思い続けながらも、まだ身を立てられないでいる人。「できるかも」がたくさんありすぎて、どれを選べばよいのかわからないまま、時を過ごしている人。「できねえなあ」だらけで嫌気が差してしまっている人。「できる」ことで大成する人はごく少数であり、現実は厳しい。 でも、まだ見ぬ「できるかも」との出会いを待ってる間に、多くの「できねえなあ」に気づいて、鑑賞者としての立場をとれる対象をたくさん確保しておくことは、それはそれで面白い道じゃないか、と思う。野茂英雄の投法もイチローの打法も、「できねえなあ」とわかっているからこそ、「すげえな」と思い、応援するのだ。ただ、「できねえなあ」に気づくためには「できないかもしれないこと」に何度か挑む必要があるのであって、それはちと腰が重いことなんだけど。 僕は最近、ボールを投げていないことを思い出す。 また、フォームをマネることからはじめてみよう。 できないことに気づくことは、悲しいし悔しいことなのだけれど、 壁にぶつかることは、痛いし苦しいことなのだけれど、 限界を知ることは、怖いし切ないことなのだけれど、 できないことが、人生を変える。 ※ むろん、結局、ごく自然に ぼくは野球の選手になんかなれないと知ることになって、 その頃から、野球の選手に、 ほんとになっちゃった人々のことを、尊敬し続けている。 糸井重里 『ほぼ日刊イトイ新聞』
「今日のダーリン」(2004年6月3日付) |
セカチューである。 『世界の中心で、愛をさけぶ』の世界観を根底からぶち壊す、この略称はなんだろう。ジコチュー(自己中心的)、ヒヤチュー(冷やし中華)、ピカチュー(ポケモン/正確な表記は、ピカチュウ)ときて、セカチュー。滑稽な響きがあって耳なじみはいいんだけど、それにしても。柴咲コウが泣きます。 著者の片山恭一がもともとつけていたタイトルは「恋するソクラテス」であり、それを担当編集者が「世界の中心で、愛をさけぶ」に改題したのだというエピソードは、わりと有名である。このハッタリの効いたタイトルは、いかにも編集者の考えそうな路線であって、たぶん物語のスケールに忠実なのは「恋するソクラテス」の方なんだろう。「ハッタリ」とは悪い表現をしてしまったけれど、よく言えば「世界の幅を広げた」。 さらにこのタイトルには本歌があって、それが米国作家ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』(原題:THE BEAST THAT SHOUTED LOVE AT THE HEART OF THE WORLD)であるということもまた、周知のものとなっている。もっとも僕なんかが最初に思い出すのは『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズ最終話のタイトルの方なんだけれども。いずれにせよ知ってる人は「ん? パクり?」と思うだろうし、知らない人は「なんか素敵」と思うだろうし、記憶に残るうまいタイトルだ。「恋するソクラテス」だったら300万部は売れなかっただろう。略して「コイソク」。いや略さなくても。 さて、ここで僕が気になるのはタイトルが最終的に「世界の中心で、愛をさけぶ」に決するまでの経緯だ。先に紹介した本歌、「世界の中心で愛を叫んだけもの」と並べると、微妙な改変が2点、なされていることがわかる。 ・世界の中心で愛を叫んだけもの ・世界の中心で、愛をさけぶ 読点「、」が挿入され、「さけぶ」の表記が漢字からひらがなになっている。これは無自覚なものではないだろう。では、これらの改変によってどんな効果がもたらされているのか。 ・せかいのちゅうしんであいをさけぶ ・せかいのちゅうしんで、あいをさけぶ 一息で読み上げるのと、読点で一拍置いて読み上げるのとでは、緊張感に若干の差がみられるようで、「せかいのちゅうしんで、あいをさけぶ」の方が幾分「ほっ」とする間をもたらしてくれている、ような気がする。「泣ける」ストーリーにあって、タイトルのわずかばかりの緩みは一種の救いともなる。 ・世界の中心で、愛を叫ぶ ・世界の中心で、愛をさけぶ 「叫ぶ」の漢字表記は、熱い。星飛雄馬が「愛!!!!!」と叫ばんばかりの汗と涙と男臭さがあるし、出川哲郎のプロポーズのような切実、懸命、真摯な姿が前面に押し出される。これはこれでいいんだけれども、対して「さけぶ」ならば、「さけんでるんだけど、ちょっと余裕はあるよ」といった感じのドライさが得られる、ような気がする。女性にも抵抗なく受け入れられそうだ。 ちなみに先日の日記で用いた「ひらがな→○」「漢字→●」の置換を、 ・世界の中心で、愛を叫ぶ に適用してみると「●●○●●○、●○●○」となって、リズムがいい。僕だったらこれを採用する。 とまれ、「世界の中心で、愛をさけぶ」が、もしも「世界の中心で愛をさけぶ」や「世界の中心で、愛を叫ぶ」であっても、売り上げに有意差はなかっただろう。これらはクリティカルな要素ではない。けれど与えられた選択肢のうち、「世界の中心で、愛をさけぶ」はベストだったんだろうなあ、と思う。改変にさしたる意図はなく、単に「なんか Cool ! っぽいから、読点入れてみました」「元ネタにちょっと工夫してみたかったんです」という理由からだったのかもしれない。正解はなんだっていいのだ。 要は、そんな深遠な思慮があったかもしれないし、なかったかもしれない末に生まれたタイトルに、一瞬でまったく違った色を与える セカチュー という略称の破壊力はすごいぞ、ということなのである。そして僕はまだ作品を読んでいない(ので、内容については語れない)。 ※ 『世界の中心で、愛をさけぶ』が売れ、こういうテイストの装丁を堂々とやらせてもらえるようになったので仕事がやりやすくなりました。写真は使い方によってはイメージを固定してしまうので、装丁であまり使われなかったけど、主題のはっきりしない写真が増えてきているし、装丁の観点から見れば、そういった写真は小説向きだと思います。 ――柳澤健祐 ※『世界の中心で、愛をさけぶ』の装丁を手がける。 (『BOOK DESIGN』VOL.1 より) |
ビッグマックは食べにくい。 ビッグマックは、箱に入れられて供される。 他のハンバーガー群のように、紙に包まれていない。 ため、 直に手に持ち、口に運ばざるをえない。 厚みと重さを感じさせ、ゴージャス感を演出するための謀略としか思えない。 食べる端から、 肉が飛び出る、チーズが飛び出る、 レタスが落ちる、ソースが落ちる。 といって、 「食べやすくするために」 パンズを抜く、肉を抜く、チーズを抜く、レタスを抜く、紙で包む、 わけにはいかない。 ビッグマックがビッグマックでなくなり、 それは普通のハンバーガー。本末転倒。 食べにくいことが、 ビッグマックのアイデンティティー、レゾンデートル。 僕は、昔から口下手だった。 「話せるようになりたいなあ」 と思うこともあったけれど、もはやあきらめている。 その口下手が、今の仕事ではいい方向に作用している、ように思う。 「口下手」が「聞き上手」に変わり、 相手の話を引き出すための「間」に、恐れを感じない。 「話したがりは、記者になれない」 と、よく言われる。 誰も記者の演説なんて聞きたくないのだ。 「話し上手」の人々に羨望の眼差しを向けながらも、 僕はこのまま、 まあなんとかやっていけるのかもしれない。 ビッグマックはてりやきマックバーガーにはなれないし、 ましてやフィレオフィッシュになんてなれっこない。 ビッグマックは、あいかわらず食べにくい。 それでも、ビッグマックは売れ続ける。 |
募集から3ヵ月が経ち、季節がひとつ巡りました。思い出がまた遠くなり、曖昧だった夢と現実の境界線が濃くなるくらいの、時が流れたわけです。それでもいつか君に話した夢に、嘘はひとつもありませんでしたよ。 お待たせしました(待たれてないかも)。 回答篇です。 掲載にあたって、一部改変させていただいた質問もあります。ご了承ください。質問投稿窓口は引き続き開放しておりますので、「あ、こんな感じの質問でいいのか」「100到達をアシストしてあげよう」「Ranaをもっと困らせてやろう」という方、思い出したときにでも、また投稿いただけたら幸いです。質問をお寄せくださったみなさん、ありがとうございました。 |
宇多田ヒカルは、新曲「誰かの願いが叶うころ」のタイトル表記について、「『ころ』とひらがなにするか、『頃』と漢字にするか、迷った」という趣旨のことを、自身の日記で書いています(これはもう、宇多田ヒカル自身の文章を読んでいだだくのが一番よいでしょう)。 >>> 『Hikki's WEB SITE』 の、 「Message from Hikki」 4月15日(木)04時01分 文章上で「ひらがな←→漢字」の置換をおこなうことを、編集の用語では「開く・閉じる」と言います。「漢字→ひらがな」が「開く」、「ひらがな→漢字」が「閉じる」です。どちらかと言うと「開く」の方が使用頻度が高いようです。編集現場では「開くか、閉じるか」の選択に悩まされることが、多くあります。 開いたところで、はたまた閉じたところで、文意は変わらないのですから、開くも閉じるも、その采配は著者や編集者に委ねられます。一般的には、ひらがな、漢字のもつ特性を考えながら、文章の雰囲気をやわらかく、やさしくしたい場合は開き、その逆の場合は閉じるようにします。「見る」「言う」「聞く」「事」「中」「時」を、「みる」「いう」「きく」「こと」「なか」「とき」と置き換えるのが、よくあるケースです。過去に僕自身が遭遇したケースを、実作上の例として紹介してみます。 ※
『はらだしき村』に解説を書いたときのことです。僕はそのタイトルを はらだしき村は僕らをのせて としたのですが、最終的にこのタイトルに決する前の時点で、僕の前には4つの選択肢がありました。それは、 A.はらだしき村は僕らをのせて B.はらだしき村は僕らを乗せて C.はらだしき村はぼくらをのせて D.はらだしき村はぼくらを乗せて という4つ。「僕ら」 or 「ぼくら」、「乗せて」 or 「のせて」という、2×2=4通りです。 「ぼくら」ではなくて「僕ら」、「乗せて」ではなくて「のせて」を選択した理由は、なんだったでしょう。それぞれについて、書いた当時の僕の考えを思い出しながら、まずは消去法の観点から見てみます。 ・「ぼくら」としなかった理由 直前に、助詞「は」が存在するため、「ぼくら」とひらがな表記にすると、「はぼくらを」という、ひらがなのブロックが生じてしまいます。「はぼくらを」というのは、ぱっと見では意味をとりづらい。それに「はぼ」の部分が、字面としてあんまりよろしくない気がしました。助詞「は」が「ぼくらを」に連結してしまうことで生じるこうした違和感を、「僕」と漢字表記することによって軽減したいと思いました。 ・「乗せて」としなかった理由 「乗」という漢字は、「搭乗」を想起させて、乗る対象物がメカニカルなイメージになります。文中で僕は、「村」に対して「浮遊物」としてのイメージ、ふわふわと漂うイメージを重ねており、メカニカルでは具合が悪いので、「乗せて」は却下。字面としてもやわらかくなりますので、「のせて」とひらがな表記しました。「の」って、丸いし。 と、以上の理由から「ぼくらを乗せて」ではなくて「僕らをのせて」を、僕は選択したわけです。 さらにもうひとつ、積極的に後者を採用する理由も、ありました。 はらだしき村は僕らをのせて の一字一字を、「ひらがな→○」「漢字→●」で置換してみます。 ○○○○○●○●○○○○○ 「は」を基点として、左右対称になります(文庫本では天地対称)。こいつはキレイ。案Aを採用する決め手となりました。ちなみに「はらだしき村」は固有名詞だということと、助詞「は」の後に読点を打てば意味がとりやすいということで、 E.「はらだしき村」は、僕らをのせて という案も考えられ、文章としてはこれがもっとも正解に近いように思われますが、あえて「 」や読点を抜かしたのは、「○○○○○●○●○○○○○」の形のキレイさを優先させたからに他なりません。「はらだしきむらはぼくらをのせて」と、一息で読んでもらいたいという意図もありました。タイトルをつけるのが下手だし、普段あまり注意を払わない僕ですが、このときばかりは熟慮したのです。だって文庫本の解説だもの。 ※
こういうのって、正解がない選択肢のなかで、いかに自分が満足できるものを見つけることができるかが勝負ですから、読む立場からすれば「どっちゃでもいい」ことに艱難辛苦している場合も多々あるんだと思います。けど、あーでもないこーでもないと頭を抱えた末に生まれた選択は、「これしかない」と納得させられるだけの説得力を備えていることも、たしかです。まずは自己満足すること。話はそれからです。 |
髪が伸びた。 という書き出しはおそらく2回目なのであって、まったくもって芸がないのだけれど、兎にも角にも髪が伸びた。 僕の散髪スタイルはいたってシンプルなもので、思いっきり短くしたのちに徹底的に伸ばす。鬱陶しいくらいに伸ばす。で、また切る。時間とお金をケチるのと、単に面倒くさいのと。 僕の言う「鬱陶しいくらいに伸」びた状態とは、せいぜい初登場時のトランクス(DRAGON BALL)レベルの長さなので、世間で言うところの「長髪」の域には達さないのだけれど、いかんせん僕は頭がデカくて髪の量が多いもんだから、ちょっと伸びただけで鬱陶しさ満開なのである。 そういえば先日Qさんに会ったときに、「まあ、相変わらずサラサラヘアで」と言われてしまった。今年に入ってから使っている「マイナスイオンドライヤー」のおかげで、髪のまとまりは格段によくなっているのだった。マイナスイオンの実力に唸った次第。もっとも他にはたいした手入れもしてないので、油断するとすぐに「無造作ヘア」を通り越した「無秩序ヘア」になるのだけれども。 あ、あと、2月にtakkaさんに会ったとき(またこのリンクか)にも、「髪、伸びたっスね」と言われた記憶が。彼に会うときは比較的、「思いっきり短くしたのち」であることが多かったため、そういう印象を与えたのだと思う。あれ以来さらに伸ばしっぱなしなんスよ。 ということで、髪が伸びたのである(話、進んでません)。 何が困るって、前髪が視界を妨げるのがよろしくない。僕の日常なんてディスプレイ眺めてるか本読んでるかくらいしかないのに、これは困る。 昔(この散髪スタイルは小学校以来変わっていない)は、対応策として部屋の中ではカチューシャをしていたのだけれど、近年になって、男のカチューシャはよっぽどの覚悟がない限りは許されないものだということを知った。特に上京してから秋葉原を散策したときに思い知った。現在カチューシャの認可が下りているのは假屋崎省吾くらいのものだ。 そこで思い至ったのが、髪ゴムである。前髪からひっつめて後方で留めれば、落ち武者みたいでカッコいい(と、思う)。100円ショップならば、「いや、そんなにいらんから」というくらいの髪ゴムが束で手に入る。最近はこれを使い始め、視界は良好だ。 カチューシャと50歩100歩じゃんと言われればそれまでだけれど、この快適さには勝てないのだった。現に今も髪ゴムをしながら、この日記を書いている。もうしばらくはこれでいこう(早く切りなさい)。
ピンクの髪ゴムにまつわる故事:“YAWARAちゃん”こと、柔道の谷亮子(旧姓・田村)選手が、1996年のアトランタオリンピックの時につけていたのが、ピンクの髪ゴム(リボン)である。青の髪ゴムで臨んだ92年バルセロナオリンピックで銀メダルに終わった田村は、このピンクの髪ゴムに変えて以降、破竹の84連勝を記録することになる。 しかし、ピンクの髪ゴムで臨んだアトランタオリンピックの決勝で敗れ、結局またもや銀メダル。ピンクの髪ゴムの神通力も、ここで途絶えた。以降は、「原点に戻って」赤の髪ゴムを、大舞台ではつけるようになる。 ちなみに田村が髪ゴムを使い始めたのは、柔道を始めたのとほぼ時を同じくする。柔道教室での練習を見学に来た田村の母が、「男の子の中で練習する小柄な娘の居場所が、すぐにわかるように」との目的で赤い髪ゴムをつけさせたのが、最初とされる。 |
僕は誰になんといわれても、方解石のようにはっきりした、曖昧を許さぬ文章を書きたい。 芥川龍之介「文章と言葉と」(角川文庫『杜子春・南京の基督』所収) ※
小遣いを使って、つまりは自分のお金で初めて買った本は、新潮文庫『蜘蛛の糸・杜子春』(芥川龍之介)でした。表題2作はじめ「トロッコ」や「猿蟹合戦」など、いわゆる「年少文学」が収められている、比較的読みやすい短篇集です。 僕に読書の習慣が身についたのは、最初に出会ったこの文庫本の貢献とするところが大で、上京する時にも携えてきたため、今なお脇の本棚の、すぐ手に取ることができる位置に収まっています。 ※
同じく芥川龍之介「六の宮の姫君」(新潮文庫『地獄変・偸盗』所収)を読んだのは、大学3年の夏でした。サークルの中国合宿の最中です。読み終えたのは、広州から桂林へ向かう寝台列車の車中。その直後に、北村薫『六の宮の姫君』に手を伸ばしました。自身の芥川に関する卒業論文を材とした作品です。元ネタとなった短篇を先に、と思ったため、この順番で読みました。 この『六の宮の姫君』、文学部生の卒論が下敷きということで、さすがに難解な部分多々ありなのですが、どうしたもんだか僕は好きで、何度か読み返しています。来年には卒論を……という折も折、「こんな卒論が書きたい」と思ったものです(いや、君、理系だったし)。 ※ 今日は、神奈川近代文学館「21世紀文学の預言者 芥川龍之介展」に行ってきました。あえて「今日」でなければならなかったのは、北村薫さんを講師に迎えての講座、「私と芥川龍之介」もまた、この日に開かれることになっていたからでした。 2月に開通したばかりの「みなとみらい線」に乗り、元町・中華街駅で下車、坂を延々と登ったその先に、文学館はあります。日中の気温は上がってきたとはいえ、朝夕まだ冷える季節。長袖シャツの上に薄手のパーカー(UNIQLO)を羽織っていたのですが、坂の中腹、大佛次郎記念館のあたりで湧き出る汗に辟易し、パーカーを脱ぎ、袖をまくりました。 会場に着いたのは開演10分前。息が少々切れぎみながらもなんとか落ち着かせ、着席して北村さんの登場を待ちます。衣服がじんわり汗ばんで気持悪いのはガマンです。 登壇、そして開演。サイン会も含め、北村さんにはこの半月で3回目の接近遭遇ということで、「追っかけすぎ」のきらいもありますが、気にしません。文庫版『六の宮の姫君』とメモ帳とペンを手に、講座に集中しました。やはり内容は、自作(=卒論)が中心。読んだ本の内容を端から忘れていく僕といえども、『六の宮の姫君』は3度ばかり読んでいます。触れられた(あるいは、朗読された)箇所それぞれについて大体の見当がつき、文庫本を開いて当該箇所を参照しながら「ふむふむ」と頷き聞き入ります。 僕にとって興味深かったのは、実際の(=学生時代の北村さんの)卒論制作経過を、小説『六の宮の姫君』に落とし込む際の工夫、でしょうか。たとえば当時の北村さんが卒論制作以前からすでに備えていた知識(あるいは読んでいた資料)に、《私》(=小説の主人公)は紆余曲折を経てたどり着くことになっている、といったようなことです。もちろん「事実そっくりそのまま」では小説にならないわけで、そこを読ませる小説に仕上げる実作上の背景を伺うことができたのは、とても刺激的でした。 また、『六の宮の姫君』刊行後に読者から寄せられた「六の宮の姫君」(ややっこしいですが、こっちは芥川の短篇を指します)に関する別方面からの解釈を、文庫版『朝霧』(シリーズ上の続編)にこっそり加筆している、というお話もされました。これまた文庫版『朝霧』を、つい先頃読んだばかりの僕はにんまりです。 講座全体を通してみると、芥川について、ひいては文藝についての知識乏しい僕には、正直ついていけなかった部分も多かったのですが、それはさておき充実した講座であった、ということは言えます。満腹。 芥川は、多面体です。わたしの『六の宮の姫君』は、ほんの小窓から、彼を覗いてみたにすぎません。 北村薫(講演「私と芥川龍之介」より) ※
「芥川龍之介展」そのものの紹介は駆け足で。生い立ちから晩年・死まで、ゆっくりと、丁寧に説明・展示されていました。直筆の原稿・草稿、掲載雑誌、書簡がこれだけ揃うと圧巻。『文藝春秋』の創刊号、「六の宮の姫君」の掲載雑誌(『表現』)、その他『六の宮の姫君』にて触れられた物品の実物を目にすることができました。それにしても写真がいちいち格好いい。 館を出る頃には日は傾き、気温は低下。バッグに詰め込んでいたパーカーを広げて羽織り、帰途についたのでありました。 ※ ところで。 展示会場を出てすぐのところにあるカウンターに、原田宗典『河童』が重ねられていました。原田さんが芥川の戯作に挑んだこの作品が、ここでこうして売られているのはまあ自然なことではあるのですが、不意を衝かれたためにちょっと驚きました。昔、自分が売り子として手売りしたこともあったもので。 さらに。 展覧会の図録サンプルの横に並べられていた文学館の機関紙を、何気なくパラパラと眺めていると唐突に、 慈眼寺まで 原田宗典 との文字。うはあああっ。芥川についてのエッセイを寄稿されていたのですね。そういえばご本人の口から、「『芥川龍之介展』に寄せた文章書いたよ」とのお知らせをいただいていたのでした。恥ずかしながら、そして失礼ながら失念していた次第で、何も知らなかったかのように純粋にびっくりしてしまいました。すみません村長、買いました機関紙。 一昨年(二〇〇二年)の十一月ことだ。 私はその年の春先から晩夏にかけて、芥川龍之介の「河童」を戯作して、若者向けの絵本に仕立て上げる、という向こう見ずな作業に没頭していた。―― 原田宗典「慈眼寺まで」(神奈川近代文学館機関紙第84号より)
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※本日の日記は、1年前に『Handicraft』への代打日記として提供した文章を加筆修整して、お送りします。限りある資源を大切にしよう。別名「誉め殺しシリーズ」、第2弾。 takkaさんは、「意味づけをすることに長けた人」だと思います。 サッカーに、格闘技に、あるいは日常の些事に、一言二言の会話に、彼は意味づけをします。 スポーツをはじめとする文化が、takkaさんの俎上に載せられたならば、彼はその的確な批評眼をもってして対象を斬ります。それはまさしく「斬」と表記するのに相応しい切れ味をもっています。 また、ともすれば素通りしてしまうかもしれない日常の一風景も、takkaさんの手にかかればひとつの物語になります。それは笑いや、怒りや、哀しみ、その他種々の思いを、読み手(あるいは聞き手)にもたらします。 これら、あらゆる事物に言葉を与え、存在意義を与え、人に感銘や笑いを与える能力をして、僕は「意味づけする力」と考えます。takkaさんには、それが備わっていると思うのです。 ※ ひとつ別の例を挙げてみましょう。 「江夏の21球」という、山際淳司氏の書いた短編があります。グラフィック系スポーツ雑誌の草分けとなった『Number』誌の創刊号に掲載された、ノンフィクションです。 1979年、近鉄バファローズ×広島カープの日本シリーズ。その第7戦、9回裏。広島カープ江夏豊が投げた21球を追ったこの文章は、日本におけるスポーツ・ノンフィクションの出発点であり到達点として、現在も輝きを失っていません。 僕は思います。山際淳司が書かなかったら、この日の江夏豊が、これほどまでに後世に語り継がれることはなかっただろう、と。 端的に言えば、江夏豊はこの日、この回に、ただ21回、腕を振っただけのことです。そこには、ただ打者を抑えるために、という単純至極な意味しかありません。 この21球それぞれに光を当てたのが、山際淳司です。江夏豊本人のみならず、相手打者や両軍監督に丹念な取材をおこない、言葉を拾い、1球1球をさまざまな角度から解釈し、驚くほど多層の意味を浮かび上がらせました。それは江夏豊の凄さを知らしめるとともに、野球というスポーツそのものの奥深さを再認識させてくれるものでした。 そして、江夏の21球は、伝説になりました。 正確にいえば二六分四九秒――その間、江夏はマウンドの一番高いあたりから降りようとはしなかった。マウンドは江夏のためにあった。 山際淳司「江夏の21球」(『スローカーブを、もう一球』所収) ※ 意味づけするとは、こういうことです。競技者自身は、自己のフィールドで精一杯のプレイをすることに懸命でしょう。ただ勝利のために、走り、跳び、打ち、投げ、蹴ります。ひとつひとつをとってみればごくシンプルな動作に、観客がそれぞれの感性で意味づけをするからこそ、スポーツはスポーツであると言えます。 この意味づけを普遍的なレベルでおこない、言葉にするのが、ライターという職業の人々であり、僕はtakkaさんの文章に、その心性を見るのです。 サッカーにしろ、K−1にしろ、PRIDEにしろ、プロレスにしろ――takkaさんの熱く、冷たい視線を通して語られると、魅力が何倍にも増幅されるように感じられます。こういう目で自分も観戦できたら……と、いつも思います。 もしも僕の文章が、takkaさんの批評を受ける機会があるならば、僕はそれを真摯に受けとめるでしょう。そしてtakkaさんの批評の皿に乗ったということ自体を、光栄に思うことでしょう。その「意味づけの才」に、斬られてみたいと、思います。 「見えるということは、世界が豊かだということでしょう。羨ましいと思いますよ」 北村薫「山眠る」(『朝霧』所収)
そんな彼のサイトが、『Handicraft』です。1年に一度くらい会って、秋葉原や上野や新宿で右往左往。酒は呑まずにケーキを食って、「人生って、いろいろあるっすね」「だな」と、『THE 3名様』(ビッグコミックスピリッツ連載中)に勝るとも劣らぬ伏し目がちトークを繰り広げる間柄。うん、僕らはもう少し、建設的な話をするべきだね。メイドカフェでね。 |
海渡る至宝――アジア初 門外不出の5点一挙公開 毎日新聞(2000年1月1日)特集記事の見出しより 大昔に僕は、フェルメールという画家について思い入れたっぷりに語りました。4年経った今なお、その代表作『青いターバンの少女』が日本にやってきたときに、観に行かなかったことを後悔しております。大阪市立美術館までの交通費が最大のネックだったわけですが、貯金を切り崩してでも行っとくべきでした。くそう。 そのフェルメールを材とした映画『真珠の耳飾りの少女』が公開されたということで、初日に観に行きました。多分公開期間は短いものでしょうから、気合入れました。でもそれにしたって現在のところ銀座・池袋・関内(横浜)の3館でしか上映されていないとは、なんたることでしょう。公式サイトを確認したところ、2週間から1ヵ月遅れで全国各地で順次公開されていくということですが、せめて4年前に絵画が上陸した地である大阪では、先陣を切ってほしかったところです。 300年の時を経て、フェルメールの織りなす光を味わえる私たちの幸福。 『週刊美術館8 フェルメール』
さてこの映画、フェルメールと、絵のモデルとなった少女グリートとの間に芽生える愛、とも言い切れぬ感情の振れが、とても抑制された演出で描かれています。フェルメールは無口だし、グリートもまた、使用人という身分の上からも口数がそう多くないということで、沈黙の多いこと多いこと。その分視線などの細かな動きから、心の動きを読み取ってくれということでしょう。それはフェルメールの絵がもつ静けさに通じ、効果としてはいい方向に作用していました。 また、フェルメールのアトリエの再現がすばらしく、静止した画面はまさしく絵画そのもの。随所で印象的かつ効果的に用いられた青色もきれいで、撮影・美術・衣装デザインの3部門でアカデミー賞にノミネートされたのも頷けます。期待を裏切られずにすんでよかった(ちなみに美術および衣装デザイン賞をかっさらったのは、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』)。 原作は、トレイシー・シュヴァリエによって1999年に書かれた小説で、まったくのフィクション。フェルメールはその生涯についてほとんどわかっておらず、残された作品数も30数点と、拠り所となる資料は本当に乏しいのですが、その分だけ想像を飛躍させる余地が多くあったようです。通称である『青いターバンの少女』ではなく、『真珠の耳飾りの少女』をタイトルとしていることが示すとおり「真珠の耳飾り」が終盤重要な意味をもってくるのですが、絵画においてほんの一部分を占めるに過ぎない真珠の耳飾りから、これだけ世界を広げられたのは讃えていいと思います。 「ある朝、ベッドに横になって、絵の少女の顔をじっと見つめていたら、突然こんな考えが浮かんできたんです。“フェルメールは、いったいどうやって、彼女からあの幸せそうな、でも悲しそうに見える表情を引き出したんだろう?”」 ――トレイシー・シュヴァリエ 映画パンフレットより ヨハネス・フェルメール(1632〜75) オランダ南西部の海上貿易都市、デルフトに生まれ、生涯を故郷で過ごした。高度な技術を駆使した精妙な光の描写、堅密な構成を特徴とする静かで落ちついた雰囲気の室内風俗画の名手で、デルフトを描いた都市景観画の傑作もある。 わずかな資料から1653年に画家組合に入会したこと、画業のかたわら父譲りの美術商を営んだことなどがわかっているが、師匠すら特定できないほど、その生涯は多くのなぞに包まれている。(毎日新聞) |
今から7年前、「入学祝いに」ということで、親から買ってもらったものだ。この7年の間に、「ミニコンポ」という言葉のもつ威力も響きも、随分変わってしまった。新しいメディアが次々と生まれ浸透し、音楽はどんどん安く、軽くなっていった。 CDが5枚一度にセットできるという、こけおどし的謳い文句で販売されていたこのコンポを購入したのは上京直前。思えば東京に出てから、東京の量販店で買えばよかったものを、「金だけ渡して祝いにするのもなんだから」という理由で、地元岡山の家電ショップで買ってもらったのだった。7年前の3月末に、僕の部屋で開梱したときのことをよく憶えている。 なぜだかその日そのとき、部屋には父、母、妹、そして僕と、一家が勢ぞろいしていた。ベッドが面積の半分を占めていて、狭苦しい印象を与える部屋に4人。単身赴任先から一時帰宅中の父がいて、いつもながらに身体の不調を訴えていた母がいて、中学入学を目前に控えていた妹がいたわけだ。ダンボール箱から取り出したコンポ本体とスピーカーとを接続し、試しに稼動させてみよう、ということでビートルズの『青盤』をセットし、リモコンの「 」のボタンを押した。 「STRAWBERRY FIELDS FOREVER」が部屋に流れるなか、僕はなんだかしみじみと、「家族4人」であることができる最後の日のことを思った。 たかだか新幹線で4時間の距離の地に移り住むだけなのに何を大げさな感慨を、と思われるかもしれない。けれど年に1、2回帰るだけの実家にあって僕の立場はどうしても「お客さん」となり、帰省することはひとつのイベントとなり、家族ともにあることが当然であったそれ以前の日々とは明らかに何か違ってしまっているので、「最後の」と感じていた当時の思いはあながち外れてもいなかったと思う。 東京生活のはじまりに、友人知人が誰もおらず、夜や休日の空いた時間を持て余していた僕の退屈を紛らわせてくれたという意味で、このコンポは相当に活躍した。CDを聴いた。ラジオを聴いた。深夜ラジオを録音したテープは繰り返し聴き過ぎて、また、重ね録りをし過ぎて、すぐに使い物にならなくなった。 だが蜜月とは短いもので、僕が東京生活に慣れていくのと反比例して、コンポの稼働時間は短くなっていった。夜通し飲んだり、カラオケしたり、バイトしたりしていた毎日のなかで、急速に音楽もラジオも要らぬものとなってしまっていった。 3、4年もすると、初期の酷使が祟ったのか、あちこちにガタが生じはじめた。CDをセットしても認識してくれなくて「NO DISC」の表示を続けるし、テープにいたっては「OPEN」を押しても何の反応も示さないために、セットすることすら不可能となった。損なわれることなく機能し続けるのは、ラジオ部門のみ。バカでかいラジオの誕生。 丸7年。ここ数年はほとんど稼動することなく、放ったらかしになってしまっていた。時刻の表示窓はずっと「- - : - -」のままだ。「処分」が頭をよぎったのも何も今にはじまったことではなく、同じくここ数年、折に触れて考えてきたことであった。 それでも実際に処分する段になかなか進めないでいるのはどうしたものだろう。処分すれば空いたスペースに、溢れかえっている本を少しでも収納することができるのに。「祝いの品」であるからこそ、ためらいを抱いてしまうのはまあ納得できる理由であるのだけど、どうにもそれだけではない他の心情が、処分に踏み切るのを邪魔しているように思われる。そうして8年目を迎えるのだ。コンポ自身にとっても、おそらく本意ではない待遇のままに。 家族がみんな揃って生活している時間など本当にうたかたのものでしかないのだ、ということを過ぎた日々を思うなかで私は静かに実感していた。 椎名誠 「海流」(『春画』所収) |
2004 :
01-03
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