■ 2005年4月,5月,6月
尊敬するもろやん先輩から、Book Batonが回ってきました。 ※ 「Book Baton」 とは? 「おれのバトンが受け取れねえってか?」 もろやん先輩のやさしい声が、耳のそばから聞こえてきます。いえいえいえいえ受け取れないなんてコト、あるわけないじゃないですか。 「仕返し」 だなんて、めっそうもございません光栄ですありがたく頂戴します。ちなみに 「尊敬する」 は、 「もろやん先輩」 の枕詞です。 設問は5問。先輩から後輩へ、愛のバトンリレー。願わくばこのバトン、誰にも渡したくない。で、バトンを握り締めたまま、尊敬するもろやん先輩の胸に全力疾走で飛び込みたい。 喜んで答えます。
以上、Rana的Book Batonでした。尊敬するもろやん先輩、こんな感じでよろしかったでしょうか? 缶ジュースは何がお望みでしょうか? ファンタでしょうかポカリでしょうか? |
僕が師匠(メイドカフェの)と仰ぐtakkaさんから、Musical Batonが回ってきました。 ※ 「Musical Baton」 とは? 何のいやがらせでしょうか。 これまでの日記で、僕が 「音楽」 について語ったことなど、皆無に等しいと思われます。そんな僕に、何を語れと。 設問は5問。 「簡単に答えられるものばかり」 と、バトンを繋いでこられた方々は口々におっしゃっています。が、僕にとっては無理難題。願わくばこのバトン、はたき落としたい。で、バトン持たずに全力疾走で逃げたい。 でも、答えます。
以上、Rana的Musical Batonでした。日ごろ音楽を聴かない人間が回答すると、こういう恥ずかしいコトになります。もっとカッコいい回答がしたい。 |
1年8ヵ月前、 「Webログ」 なのか 「ウェブログ」 なのか 「ブログ」 なのか、表記はまだ定まっていませんでした。 現在、勝利は 「ブログ」 の手にあるように思われます。社長がアイドルがプロ野球選手が、ブログを運営し読者を集め、コメントやトラックバックは花のにぎわい。日記でエッセイで創作で、各人がそれぞれの思いを綴って繋ぐ。誰もが遊べるツールとして急速に普及が進むなかで、 「Webログ」 「ウェブログ」 「ブログ」 の表記の揺れは、やがて 「ブログ」 に収束しました。文字数少なかったからかな。 ただ、定義はいまだにあやふやなように思われます。冒頭の引用にしたところで、わかったようなわからんような感じです。でも、定義なんて知らなくったって、ブログは運営できます。人生の定義なんて知らなくったって、人は生きていけるように(今、うまいことゆうた)。 いわゆる 「ホームページ」 からブログへの移行、日記サイトからブログへの移行も進みました。気づいたら周りはほとんどブログさん。昔ながらの構成の 「ホームページ」 をやってる人は、むしろ少数派になってきた感があります。作成・更新に習熟と忍耐を要するHTMLによるwebサイトより、ブログははるかにとっつきやすいですからね。 ただ、この展開に僕は一抹の寂しさを。 それは何も、変化についていけてないことのみに拠るものではありません。みんながHTMLに四苦八苦していた時代。 「ホームページ」 のデザイン(サイト名も、サイト構成も、レイアウトも、色づかいも、あるいは文体も、すべてひっくるめての広義の 「デザイン」 )は、それこそ個性のダイレクトな反映でした。 「何でもできるような気がする」 という各人の思いが、幻想と限界を伴いつつも画面から滲み出ていたように思います。 アバンギャルドな色づかいも、大小入り乱れたフォントサイズも、文法エラーだらけのHTMLも、作者それぞれが試行錯誤の末にたどり着き、公開を決断したものであったはずなのです。お手本が確立されていなかったからこそ、独自の発想による構成をもった 「ホームページ」 が、多数生まれました。僕はそれを巡るのが、あの頃、たしかに好きだったのです(参照:010308、010608)。 今、構成は最適化され、デザインは洗練され、フォントサイズも相応なものが選択されていて、見た目涼やかな多くのブログが、日々誕生し、更新されています。僕がここで少しの寂しさをおぼえるのは、個性の振れ幅が以前よりも狭まっているように思われるからなのです。 「ホームページ」 には、1から7までの7段階あるフォントサイズのいずれかを選び取った作者の思いの表出があった。それが、今は薄まっている。読みやすいフォントサイズはあらかじめ与えられていて、個人がゼロから検討するものではなくなっています。 「色づかい」 についてもしかり。 「ブログはかくあるべきだ」 というお手本が多数存在し、デザインに対する意識が高まり、提供されるカスタマイズ機能も充実している現状は、歓迎すべきものです。情報を発信する立場からすれば、ややっこしいHTMLに時間を取られずとも作成・更新が可能ですし、受信する立場からすれば、その更新の情報が逐次入手できるのです。情報の公開・シェアの進化したひとつの形が、そこにあります。 その代わりに、素人が、個人が、 「色づかい」 「文字の組み方」 「HTML」 に取り組み、苦心惨憺していた珍しい時代は、あっという間に過ぎ去ってしまったのかなあ、と思うのです。その機会が失われるのは、惜しいなと。読みやすく綺麗であるに越したことはないのですから、技術が開発され、それを誰もが使えるようになることは正しい流れではあります。そのなかで生まれたスマートなブログも、もちろんいい。けど泥臭い 「ホームページ」 もまた、好きなんだよなあ。
|
1点差とか2点差とか、競った試合の終盤に登板し、失点することなく試合を締めくくることを義務づけられるのが、野球でいうところの 「守護神」 。 さらにいえば、その任務を着実に遂行する者であると、ファンやマスコミの間で共通認識として定着して初めて与えられる称号。先に挙げた3名が、いずれも一時期は確実に 「守護神」 であったけれども、不振あるいは環境によりその座を追われていることからもわかるように、維持することは容易ではなくむしろ剥奪の機と背中合わせの、重い重い称号。 ――の、はずなんである。 なのに、 「堀内監督、新守護神に木佐貫を指名」 などという見出しが、スポーツ新聞に踊る。 こういう類のことはよくある話で、スポーツマスコミは気が早い。僕もそういう勇み足だらけの部分が決して嫌いというわけではない。微笑みながら、楽しみながら、記事を読んでいる。大概は。 けど、やっぱり、 「新守護神」 という言葉が備える違和感は、看過することができない。これは日本語としておかしいのではないかと。前述したように 「守護神」 は、ある程度の期間にわたって活躍し、その実績によりファンやマスコミが 「彼は 『守護神』 と呼ぶにふさわしい」 と認めて初めて誕生するもののはずなのだ。ある日突然 「新守護神」 が生まれるはずはないし、ましてやそれを 「指名」 なんてできるはずもない。 今のプロ野球で 「守護神」 と呼んで異論がないのはたとえば中日ドラゴンズの岩瀬仁紀であったり千葉ロッテマリーンズの小林雅英であったり、そして我らが西武ライオンズの豊田清であったりとまあ、このクラスの選手になってくる。豊田さん、先日めった打ち食らってましたけど。日記は顔文字満載ですけど。 木佐貫洋が将来、彼らのように 「守護神」 に成長する可能性はもちろんあるけれども、現時点で 「新守護神」 であるわけがない。だから 「新守護神木佐貫がリリーフ失敗!」 「新守護神の木佐貫、今夜は締めた!」 という見出しには、毎度 「なんだかなあ」 と思ってしまうのである。 実績はこれから、のはずなのに 「守護神」 と呼ばれてしまっていること。さらに本来冠せられるはずのない 「新」 という接頭語までもくっついてしまっていること。違和感。木佐貫洋にはぜひとも、これを払拭するべく精進し、成績を残し、真の 「守護神」 になっていただければと思う。読売ジャイアンツの 「守護神」 が確立しないことには、 「守護神」 の安売りは永遠に繰り返され、僕の違和感は永久に解消しない。でも、肩の違和感はダメですよ(結局これが言いたかった)。 |
最近気になる言葉が、ふたつあります。まずひとつめ。 落語をききにいったことは今までに3回あって、決して多いとはいえない回数なのですが、噺をきくたびに妙に耳に残って離れなくなる、ある言葉があるのです。それは、 「ありがとう存じます」 これ。 「ありがとうございます」 ではなく、 「ありがとう存じます」 。噺のなかで、繰り返し繰り返し登場するんです。 厳密な身分の別が存在した時代の話ですし、それは往々にして 「身分の低い者」 の視点により展開されますので、自分より 「身分の高い者」 に対して御礼を申し述べるときに 「ありがとう存じます」 ということは、当時としては別に不思議でもなんでもないことなのでしょう。 しかし現在、日常で、みずから 「ありがとう存じます」 と口にすることはありませんし、耳にする機会もほとんどありません。だから寄席という異空間で不意に出くわしたとき、その耳馴染みの薄さゆえに 「おおっ?」 と、引っかかりをおぼえてしまうのです。 ふたつめ。 2004年後半からレギュラー番組を増やし続け、暮れの 『M-1グランプリ』 (優勝)によって一気にハクがついた形のお笑いコンビ 「アンタッチャブル」 は、高度成長期を経て今なお人気・露出度ともに高値安定を維持しているように思われます。 そのひとり、山崎弘也が発するある言葉にも、僕は引っかかりをおぼえます。それは、 「あざーっす!」 これ。いいフリを投げてもらったら 「あざーっす!」 、いいツッコミをしてもらったら 「あざーっす!」 、うさん臭いあの笑顔で、 「あざーっす!」 。実に元気。ウソかマコトか 「今、芸能界ではこのフレーズが大ブーム」 であるらしく、まんま番組タイトルにもなってます。この言葉が、頭のなかでリフレイン。わりとうんざり。 さて。 落語からアンタッチャブルへと話は飛びましたが、ここで僕が注記したいのは、 「ありがとう存じます」 と 「あざーっす!」 、このふたつが同じく 「ありがとうございます」 を意味する言葉である、ということです。 同じ意味をもちながらも、対極に位置する 「ありがとう存じます」 と 「あざーっす!」 。一方を 「美しい」 と形容するとすれば他方は 「きたない」 と形容できるでしょうし、一方を 「硬い」 と形容するとすれば他方は 「やわらかい」 と形容できるでしょう。 どちらが 「いい」 「悪い」 の問題ではありません。アンタッチャブル山崎が 「ありがとう存じます」 なんてかしこまってもシラけるだけだし(一回性の笑いはとれるかもしれないけれども)、噺家が 「あざーっす!」 なんて叫んでもそれは破格を通り越して破壊です。時が、人が、場が、言葉を選ぶものだし、逆に言葉が、時・人・場を選ぶわけです。 強調したいのは、日本語は 「ありがとう存じます」 と 「あざーっす!」 というふたつの言葉を包含し、許容しているんだということ。想像したいのは、 「ありがとう存じます」 から 「ありがとうございます」 を経由して 「あざーっす!」 に至るまでの間に、言葉の階層はどれだけあるんだろうか、ということです。 これはたぶんすべての言葉についていえることで、ある根幹となる意味の両脇に、どれだけの数の言葉が階層をなして並んでいるんだろう? ということ。その振れ幅はいかほどなんだろう? ということ。 ある時、ある人が、ある場所ある場面で、ある意味を伝えたいと思ったとき、彼がどの階層の言葉を選択したのか、伝えたい意味をどう表現したのか、その伝達は成功を収めたのか、失敗に終わったのかということ。 こんなことを知っていきたいし、考えていきたいもんだなと、思うわけです。 |
たとえば集英社から出ているジャンプコミックス、 『DEATH NOTE(デスノート)』 。 2005年5月現在、6巻まで刊行されているこのコミックスのカバーには、 「マットPP加工」 というヤツが施されています。 「マットPP加工」 とは何でしょうか。その前にまず、 「PP加工」 の説明が必要となるでしょう。 「PP加工」 の 「PP」 は、 「ポリプロピレン」 の意。プロピレンの重合により生成されるポリマーであり、プラスチックスの一種です。いや、余計に難しくなってる。えーと要するに、紙の表面をピカピカつややかにするコーティング加工のことです。 PP加工されているものといえば、通常のコミックスのカバーが該当します。ジャンプコミックスの 『ONE PIECE(ワンピース)』 や、りぼんマスコットコミックスの 『NANA』 。これらのカバーはピカピカつややかで、光沢があるのが確認できると思います。PP加工はカバーをキズや汚れから守ってくれるので、重宝されています。 対して 「マットPP加工」 。これは同じPP加工でも、光沢を消したものです。落ち着いた雰囲気を醸し出し、手ざわりが柔らかソフトになる代わりに、キズや汚れが目立ちやすい面があります。世のブックデザイナーたちは、カバーの趣を決する重要な要素のひとつとして、これらコーティング加工の種類・有無を選択しています。 コミックスをあまり手に取らない方もいらっしゃるかと思いますので念のために別の例を出すと、花とゆめコミックス 『彼氏彼女の事情』 に施されているのがPP加工、ガンガンコミックス 『鋼の錬金術師』 に施されているのがマットPP加工です。もしもし、ぜんぜんわかりやすくなってませんよ。 さて、 『DEATH NOTE』 です。ジャンプコミックスのほとんどが光沢のあるPP加工であるなかで、 『DEATH NOTE』 のみがマットPP加工を選択していることは、この作品の(他の 『週刊少年ジャンプ』 連載陣と比しての)特殊性を際立たせることに効果を上げています。事実コミックス1巻は少年誌史上最速で100万部を突破したと聞きましたし、久しぶりのヒット作を売り出すにあたっての編集部の意気込みあるいは色気が、特例としてのマットPP加工の選択という事象ひとつからも匂ってきます。コミックス3巻の帯に 「手触りのよいマット仕様カバー!!」 なんて堂々と謳っていることもまた、狙っての選択であったことを示しています。 実際読んでいても、この手ざわりが最初は気になるし、やがて 「 『DEATH NOTE』 の触感」 として馴染んできます。少なくとも僕の触覚においては 「マットPP加工= 『DEATH NOTE』 」 という連想が確立してしまいました。術中にまんまとハマる形となってしまって悔しいんですが、マットPP加工選択の効果、大であったということです。 この 『DEATH NOTE』 の例のみならず、カバーの手ざわりが本の書名、著者名、内容と結びついて記憶として深く刻まれることは、少なからずあるように思います。内容以前に、装丁、なかでも触感に惚れ込んで本を購入することだってあるでしょう。あってほしい。触覚の問題が及ぼす影響力は、視覚のそれに匹敵する可能性を秘めています。
|
昼休みはエクセルシオールカフェで過ごす。 お昼どき、西新宿はサラリーマンの集団で大にぎわい。ランチを供す居酒屋にファーストフード店にカフェにコンビニに、スーツ姿の彼らが大挙し列をなす。もちろん僕もその一員としての役割をまっとうしている。新宿の昼休みの風景の一部となれて光栄です。 座る席は禁煙席。少し足を伸ばせば全席禁煙のスターバックスコーヒーがあるのだから、煙草を吸わない僕ははじめからそっちに行けばよさそうなものだけど、そうすることはない。喫煙者がいて非喫煙者がいる、エクセルシオールカフェの空間のほうが好みだから。 たしかにスターバックスコーヒーは、 「コーヒーの香りを損なわないため」 という世界一正しい理由によって全席禁煙にしてくれているんだけれど、あいにくコーヒーの香りの良し悪しがわからない僕は慢性アレルギー性鼻炎。 西城秀樹や松本人志や福山雅治が市民団体から 「卒煙表彰」 なんてされてしまうご時世、喫煙者の肩身は日に日に狭まっているものと推察される。なるほど煙草は有害だろう。けど全員が非喫煙者になった世界は、はたして居心地よいものだろうか? 禁煙席で僕が飲むのはアイスカフェ・ラテ。たまに気分を変えてアイスカフェ・モカ。 「本日のコーヒー」 はめったに頼まない。飲むと必要以上に覚醒し興奮してしまって、午後の仕事が手につかなくなってしまうから。僕はお子さま。ミルク大好き。 そういえば小学生のころは、昼休みが苦手だった。ドッジボールをはじめとする人付き合いを拒んでいた僕は、ひとりで校舎を徘徊するのが常だった。校舎を2周も3周もしたところで、チャイムが鳴る。45分が、長く長く感じた。早く5時間目になってくんないかなと、ずっと思っていた。通信簿には、こう書かれた。 「昼休みにひとりでいる姿がよく見受けられました。もっとすすんで友だちの輪に加わりましょう」 うん、今の僕も当時の僕に、そう言いたい(無駄と知りつつ)。 サンドイッチを食べて、カフェ・ラテを飲み干し、本を20ページも読めば、もう会社に戻らなくてはならない時間になる。昼休みだけを使って1冊の本を読みきるには、2週間も3週間もかかってしまう。20年経って昼休みは苦手ではなくなったけれど、ひとりで過ごしているのに変わりはない。それにしても今の昼休みは1時間もあるのに、どうしてこんなに短いんだろう? |
5月も半ば。この春から新しい職場、新しい学校、新しいクラスに通い始めた人たちは、いったいいつ、どの瞬間に、新しい環境に 「慣れた」 と思うのでしょうか。気安く話せる友人ができたときでしょうか。ほっと一息つける場所を見つけたときでしょうか。通勤、通学の風景が自分のものになったと思えたときでしょうか。ところで―― 野口英世の1000円札を目にして、あなたはまだ 「新札だ!」 と思うでしょうか。 「新札」 が発行されて、半年が経ちました。発行直後には、ATMや券売機やレジで受け取るお札が新札だったというだけで少し心が浮き立ったものです。その後、偽札対策等のために新札増刷を急ぐ日本銀行の意向も相まって、 「旧札」 は急速に消えつつあります。 「旧札」 を目にする機会は、日ごとに減ってきています。 でも、やっぱりまだ、思うのです。野口英世や樋口一葉の顔を見るたびに、あるいはマイナーチェンジにとどまった1万円札のホログラム部分を見るたびに、 「新札だ!」 と。 「新札だ!」 と思うということは、 「旧札」 のイメージが記憶として強く残っていることの裏返しといえます。そもそも 「新札」 は、 「旧札」 に対しての言葉。 「旧札」 の概念なしに 「新札」 はありえません。夏目漱石の1000円札の残像が、野口英世の1000円札の実体よりも、まだまだ色濃いということでしょう。 20年さかのぼってみます。僕は、前の前の紙幣、すなわち聖徳太子の1万円札、5000円札、伊藤博文の1000円札を、ギリギリ知っている世代です。お年玉袋のなかに、褐色の伊藤博文に混ざった青色の夏目漱石を数枚発見したとき、もらった金額そのものよりも 「 『新札』 を手に入れた」 ということに無上の喜びを感じたことをおぼえています。20年前、夏目漱石の1000円札は、まぎれもなく 「新札」 でした。 再び時を戻して――。1年くらい前、夏目漱石の1000円札を 「新札」 として認識していた人は、誰もいなかったはずです。では、 「夏目漱石の1000円札が 『新札』 ではなくなったとき」 は、いったいいつ、どの瞬間だったのでしょうか。それは、 「伊藤博文の1000円札を誰もが思い出さなくなってしまったとき」 であると、回答することはできないでしょうか。この言でいくと―― 誰もが夏目漱石の1000円札を忘れ去ったとき、 野口英世の1000円札は、 「新札」 ではなくなるわけです。 人が新しい環境に 「慣れた」 と思うとき、それは前の職場、前の学校、前のクラスを、少しずつ忘れつつある、ということでもあります。忘れたくないと、思う人もいるかもしれません。さみしいけれど、時の流れに人の記憶は勝てません。でも忘れたからって、 「なかったことになる」 わけではない。 「あった」 という厳然たる事実だけを、おぼえておけばよいのでしょう。伊藤博文の1000円札が、たしかに存在したように。 |
イチロー、3試合連続マルチ! なんてなテロップや見出しを、テレビで新聞で、目にします。 「マルチ」 、すなわちマルチヒットとは、打者が1試合に2安打以上マークすること。コンスタントにマルチを記録し続ければ打率3割をゆうゆうキープできるのですから、調子のバロメータとして適切であるといえます。加えて、 「活躍しましたよ!」 ということを一言で表現できるため、重宝されている言葉です。逆に、たとえば 「松井秀喜7試合ぶりマルチ!」 と聞くと、 「ああ松井、最近調子悪かったんだな」 と、野球ファンなら思うわけです。 ですがこの言葉、イチローがメジャーリーグで活躍する以前には、日本の野球ファンには馴染みのないものでした。類例として日本では 「猛打賞」 という語が用いられていますが、これは 「1試合に3安打以上マークすること」 を指してのものです。2安打は該当しません。イチロー以前、1試合に2安打打つことは、それ以上でも以下でもない、ひとつの事象に過ぎなかったのです。 メジャーリーグの紹介が進んだことにより、そしてイチローの活躍により、日本人は 「1試合に2安打以上打つこと」 を 「マルチ」 と呼ぶのだと知りました。 「1試合2安打」 に言葉が与えられ、そこに価値が生じた瞬間です。むしろ 「1試合2安打」 の達成はそもそも評価に足るものであった。だからこそ、その事象を 「マルチ」 と呼んで賞賛し、大きく取り上げることが、抵抗なく受け入れられたともいえます。 これは、ひとつの例。事象に言葉を与えるとき、それが定着するとき、人はそこに価値を見出しています。 事象のなかには、人に益をもたらさないものもあります。 「成層圏のオゾン層においてオゾン濃度が激減し、穴が空いたようになっている事象」 は、あるとき、ある規模を超えたころから 「オゾンホール」 と呼ばれるようになりましたし、 「人の営みなどにより、降水の酸性が強くなってしまった事象」 に関しては、pH 5.6以下の雨を 「酸性雨」 と呼ぶことにしました。事象に端的な言葉を与え、多くの人の口の端にのぼらせることにより、問題として認識させ、注意を喚起するだけの 「価値がある」 事象だと思われたからです。 逆に人が価値を認めなくなれば、言葉は急速に廃れます。昔、 「ファミリーコンピューター」 から 「スーパーファミコン」 への移行が進んでいたころ、 「16ビットゲーム機だ!」 という文句が、僕らの心を躍らせました。 「ファミコン(8ビット)」 から 「スーパーファミコン(16ビット)」 へのCPUの倍化が、スゴさもおもしろさも倍化させてくれるように思われたのです。しかし128ビットの 「プレステ2」 が発売されて5年が経つ現在、ゲーム機の性能をいうときに 「ビット数」 を云々していた時代があったことは、もはや忘れ去られようとしています。いま 「プレステ2」 で遊ぶ小学生たちは 「128ビットゲーム機」 に至る道は知りえないし、その価値を実感としてはわかりえないことでしょう。 「メジャーリーグで評価されているみたいだから」 という理由で、 「マルチ」 は日本で市民権を得ました。15年前の 「16ビットゲーム機」 という言葉が帯びていた価値に、現在の 「128ビットゲーム機」 は到底およびません。価値はちょっとした外因で揺れるし、時の流れに消えもするものです。しかしその指標としての言葉はいつの世も変わることなく、名を付与するに値するものの出現を待っています。 「ただの2安打」 に価値を見出したこと、価値を与えることができたこと。言葉の力が、そこにあります。 |
大学サークルとおぼしき集団の近くに乗り合わせたため、道中にぎやかだった。 帰りの新幹線車中。岡山始発東京行きが日に何本か出ているので、これを狙えばゴールデン・ウィーク中の自由席という競争率の高い座席を至極あっさりと確保することができる。 学生たちは通路を挟んで、そして前後座席を乗り越えて、ババ抜きやら大富豪やらに興じていた。けたたましい声が耳に響くも、とくに気にはならなかった。のみならず、自分の学生時代を省みて、同じようなことをしていた記憶を蘇らせ、彼らにそれを重ねるだけの余裕があった。 驚かされたのが、東海道・山陽新幹線における 「のぞみ」 号の本数の増大であった。僕が上京した8年前、 「ひかり」 と 「のぞみ」 の比は7:3あるいは8:2だったと思う。それがいまではすっかり逆転している。 「ひかり」 の自由席にしか乗ったことがなかった僕は、今回初めて 「のぞみ」 の自由席に乗って、帰省した。 「のぞみ」 に自由席が設けられたというニュースを耳にしたのは、何年前だっただろう。 年に2回ほどのペースで帰る実家周辺、および倉敷市街の風景は、変わり映えがしないようであり、しかし意識して仔細に観察すると、たしかな変化がそこにある。学校帰りに時々立ち寄った書店は焼き肉屋になり、カラオケボックスはマンガ喫茶になり、倉敷駅前から三越が消えた。横浜や大阪の三越閉店が大きく取り上げられていたなかで、売上高がワースト1だったと囁かれる倉敷三越は、全国的にはひっそりと、地元ではまあそれなりに惜しまれつつ、この5月5日に閉店したのであった。 家のなかにも、変化はあった。炊飯器が代替わりし、扇風機が代替わりし、ビデオデッキはHDDレコーダーに変わっていた。その昔、ビデオの録画予約は僕の役目だった。実家を出てからは帰省するたびに、デッキの時間修整をおこなっていた。数ヵ月の間にどうしても1〜2分ズレてくるのだけど、修整方法を僕以外の誰も知らなかったからだ。HDDレコーダーを使いこなしている母や妹の姿を見ながら、その便利さにただただ 「すげえなあ、いいなあ、欲しいなあ」 と嘆息しているのが現在である。 岡山駅には、ついに自動改札が導入されていた。といっても新幹線改札限定で、在来線の改札は旧来どおりであった。新幹線乗り換え口に向かう通路の途中途中に、 「新幹線は自動改札です」 との仰々しい張り紙があったのが微笑ましい。我が家にはHDDレコーダーが、岡山駅には自動改札が。 学生たちの半数が新横浜駅で降り、幾分静かになった。 「のぞみ」 のおかげで所要時間が30分ほど短縮され、随分楽になった。それでも薄手の文庫本なら3冊読める時間である。 車窓から銀座や丸の内の夜景が見えてきて僕は、 「帰ってきたなあ」 と思う。 |
人生 どうにかなること どうにもなんないこと 2種類しかない どうにかなることは いずれどうにかなるんだから あきらめないで どうにかしてみせようじゃないか どうにもなんないことは いずれどうにもなんないんだから あきらめて どうにかなることに目を向けてみようじゃないか こう思えたら どうにかなるのかもしれんけど なかなかどうにもならんなあ 実際 |
みなさん。 うっかり消去、あるいはフリーズ等で、書きかけの文章を失ってしまった経験はないでしょうか。僕は、あります。いや、みなさんあると思います。 その瞬間の焦燥感、どうあがいても修復できないことが判明したときの虚脱感、イチから書き直さなくてはならないと悟ったときの絶望感、いずれもが二度と味わいたくない感覚だと思います。 でも、忘れたころに災難は降りかかります。これはパソコンと付き合う以上、たとえそのパソコンがどれだけ高性能になったとて、避けがたい事態であると言えましょう。 で、再び書き始めて思うわけです。 「同じ文章は二度と書けない」 と。 なぜ書けないか。一言一句をとてもおぼえちゃいられないというメモリ上の問題がまずあるでしょう。あるいは、文章消失時点のショックを乗り越えて、文章執筆時点とまったく同じテンションに戻すことは困難であるということも、理由として挙げられます。文章を書くという行為は通常、たとえばアッパーとしての高揚感、あるいはダウナーとしての沈鬱感といった、日常ならざる感覚に包まれているときにこそ、なされるものであるからです。あるいは逆に、もともとニュートラルだった気分が文章を書くという行為を通じてハイになったりローになったりすることもあるかもしれません。一度見失ってしまったそうした感覚を、意識的に取り戻すことは不可能に近いのです。ムダにカタカナ多いな。 ここで僕は、よく用いられる喩えであるところの 「文章(を書く行為)は100メートル走である」 という言葉を思い出します。一気に文章を書き上げたときの爽快感、心地よい疲労感は、中学生の頃の100メートル走で味わうそれと類似しています。 といって、100メートルを疾走した直後に、 「じゃ、もう1本走って」 と唐突に言われたらどうでしょう。最初の1走が魂を込めたものであればあるほど、快走であったならばなおさら、その瞬間のやるせなさというか怒りというか 「こんにゃろう、殴ってやりたい」 という衝動というか、まあそんなさまざまな感情が募るものと思われます。 仕方なく渋々走ったとて、1走目と同じ走りはできるものではないでしょう。100メートル走に再現性はありません。 「まったく同じタイムを、狙って出すことは不可能」 であるわけです。 これと同じことで。 練りに練った内容のブログ更新直前にフリーズしてしまったとき、 書き込み送信ボタンと間違えて消去ボタンを押してしまったとき、 飼い猫の手が書きかけメールのウインドウを閉じてしまったとき、 (僕、猫飼ったことないけど) あなたはささやかれているのです 「じゃ、もう1本走って」 と。 こんなことにならないためにも、文章はできるだけメモ帳等のテキストエディタで下書きするようにしましょう。 [Ctrl+s] でセーブをこまめにしましょう(あるいは、 [コマンド+s] )。パソコンの定期メンテナンスもお忘れなく。 みなさんも、くれぐれもお気をつけください。 なんでいまさら、こんなことを周知しているのかというと。 たったいま、僕はノりにノって書いていた4000文字超の文章を消失してしまったからであります。 「じゃ、もう1本走って。800メートル走」 えーん。 |
2005 :
01-03
|