■ 2005年10月,11月,12月
『牛丼』 販売再開の見通しとのことです。 かつて牛丼への愛を謳い(010408)、その販売休止を嘆いた(040115)僕ももちろん、再開の日を心待ちにしてきた者のひとりです。豚丼も鶏炭火焼丼も牛カレー丼も、たしかにうまい。しかしながら主役たるべき牛丼の不在は、僕をして吉野家から足を遠ざけさせるという事態を生みました。どのくらい遠のいたのかというと、週1ペースから月3ペースへの減退です。たいして変わっとらんじゃないか。 再開の報を聞き、時には他のチェーン店に浮気してしまったこともあった我が身の不貞を恥じた僕でありましたが、同時に気になっていることがひとつあります。 「豚丼はどうなるの?」 と。 豚丼だけではありません。鶏炭火焼丼は? 牛カレー丼は? チャーシュー丼は? ソースかつ丼は? 主役不在の窮地に、見事代役を務めてきた彼らの処遇や如何に。彼らを排し、従来の 「牛丼一筋」 に戻るのでしょうか。それとも、多メニュー並存の現状を守るのでしょうか。 「調達できる牛肉の量が限られますので、再開後も、限定された販売とさせていただくことになるかと存じます。」 とのコメントからして、当面は多メニュー並存が続くものとは思われます。しかし、将来的に牛肉供給体制が整えば? ここで吉野家サイドとしての悩みどころは、すでに顧客からは 「やればできるじゃん」 と思われてしまっている、という点でしょう。いままでは 「牛丼一筋」 の遵守という建前に守られてきた部分があったけれども、多種のメニューを供することは、けっして不可能ではなかったということ。広くない店舗スペースにあっても、4〜5種のメニューを 「早く」 「うまく」 「安く」 回転させていくことは 「やればできる」 んだと、万人の知るところとなってしまったこと。欲深い顧客が吉野家に対して寄せる期待は、2年前に比べて確実に高まってしまっているわけです。 たとえば勉強でも仕事でも、周囲から 「やればできる」 と認識されてしまうことは、もちろん誇りともなり得ますが反面、プレッシャーにも結びつきます。だからこそ、 「やればできる」 と思われたくないがための手抜き、息抜き、力の加減をしたくなってしまうのが、これ心理。100点満点を期待され続ける立場に身を置くよりは、70点くらいを淡々ととり続けるほうが楽だよね、てなもんです。 「牛丼一筋」 が70点だなんていうわけではありませんが、この2年間で豚丼をはじめとする多種のメニューに慣れてしまった顧客からすれば、もはや 「牛丼一筋」 では飽き足らなくなってしまっていることは十分に考えられます。さらに考えを進めれば、もしも近い将来、吉野家が 「牛丼一筋」 に回帰することを選択したならば、一部の顧客はこれを 「怠惰だ」 と指摘するかもしれません。 「他のメニューを供する余力もあるだろうに、メニューを単一に絞った」 = 「怠惰」 と。顧客はどこまでもわがままです。 僕としては、どのような選択であれ支持する所存。昼食のバリエーションという意味では多メニュー並存が望ましいのはたしかですが、 「牛丼一筋」 を愚直に追求する姿勢をみせてくれるのであれば、それもまたよしです。 「やればできる子」 が今後どのような進路をとるのか、目が離せません。最近、大盛を食べきることが少々苦しくなってきた僕の胃袋の行方も気になります。年かな。 |
2005年11月13日、千葉ロッテマリーンズが、韓国のサムスンライオンズを破り、アジアシリーズ初代王者となりました。で、14日のスポーツ新聞3紙の一面。
「4冠」 「5冠」 「6冠」 と、マリーンズが獲得したタイトル数について、三様の表記がみられます。 「セ・パ交流戦優勝」 「パシフィック・リーグ優勝(プレーオフ優勝)」 「日本シリーズ優勝」 「イースタン・リーグ優勝」 「ファーム日本一選手権優勝」 「アジアシリーズ優勝」 ――これら今シーズンのマリーンズの進撃のどこまでを 「冠」 として認識するか、そして実際にカウントするか。そこに、各紙の差がありました。 「イースタン・リーグ優勝」 「ファーム日本一選手権優勝」 という2軍の戦績をもカウントしてしまったのが 『ニッカン』 の 「6冠」 、カウントしなかったのが 『トーチュウ』 の 「4冠」 となります。間をとって、 「ファーム日本一選手権優勝」 のみをカウントしたのが 『スポニチ』 の 「5冠」 です。 この日、マリーンズの 「冠数」 を一面タイトルとして取り上げていたのは、この3紙。コンビニや駅の売店で、もっとも人の目を惹いたのは、おそらく 「6冠」 ではなかったかと思われます。プロ野球ファンならば、 「4冠」 までは容易に想像がつく。では、 「6冠」 って、何? ええ、僕も手にとりました。してやられました。 どれだけ人の心を煽動し、購入意欲を掻き立てるかが、新聞一面に課せられた使命とするならば、この日に関しては 『ニッカン』 の勝利であったといえるでしょう。そこには、 「2軍の戦績もカウントしちゃおうぜ」 という 「発想」 と、 「冠は多いほうがいいじゃん」 という 「ふてぶてしさ」 、2つの勝因がありました。ここでいう 「ふてぶてしさ」 とは、2軍のタイトルを、そ知らぬ顔で日本シリーズ制覇等と並列に置くことができる、その姿勢を意味します。 悔しいのは 『スポニチ』 でしょう。2軍の 「ファーム日本一選手権優勝」 までは思い至りながら、 「イースタン・リーグ優勝」 をカウントしていなかったがため、 『ニッカン』 に水をあけられたのですから。 「イースタン・リーグ優勝」 に着眼する発想がなかったのか、あるいは着眼はしていたものの実際に冠としてカウントするふてぶてしさがなかったのか、いずれが敗因かは定かではありませんが。 『スポニチ』 の担当各氏は、 『ニッカン』 の一面をみて、 「やられた!」 と、頭を抱えたのではないでしょうか。 ほんの十数文字の見出しが実売部数を顕著に左右するであろうこの業界で、発想できるか否か、そしてそれを押し切るふてぶてしさがあるか否かが、明確な差として表れたひとつの例でした。 |
2002, 2003, 2004, 2005 こんな弱腰な企画名ではありますが、回を重ねるごとに参加いただける方の数は地味に増えております。ありがとうございます(当然、 「爆発的に」 増えたりはしない)。過去の参加者の声は041101の日記、成果報告は040116の日記をご参照ください。 ※ちなみに昔、 「N - 1 GRAND PRIX」 と銘打ってはどうかと一瞬思いましたが、果てしなく名前負けなので却下しました。 今年も、 「そろそろマンネリかしら」 という自己の内なる声をスルーして、開催したいと思うのです。が、その前に。 この3月に、僕は引っ越しをしましてですね。 本企画は、 「Ranaが年賀状を送りつけますよ」 という趣旨に基づいておりますので、僕の住所変更なんぞどうでもいい話ではあるのですが、それでも毎回、相当数の年賀状を頂戴するのです。ありがたいお話です。 旧住所にお送りいただいても、転送処理により確実に新住所に配達されますので問題はありません。しかしながら 「新住所教えたまえ」 というご要望が、まったくないとは言い切れません(そう?)。過去に本企画にご参加いただいた方限定ではありますが、別途以下のようなフォームも用意いたしました。 新住所教えたまえ(Rana) こんな感じで書き込み、ご送信ください。後日メールにてお知らせいたします(過去にRanaとメール授受した時点からメールアドレスが変更となっている場合、新アドレスもご記入ください)。 新規に企画にご参加いただける方は、下記要項内のフォーム、あるいはメールにて必要事項をご送信ください。元日に僕からの年賀状があなたの元に届き、幸先のよい1年のスタートを切れるって寸法。下記の要項をご確認のうえ、よろしくご検討のほどをお願いいたします。もちろん、継続して参加いただける方からのメッセージも大歓迎です。 「もっと更新しろ」 とか。 なんか長くなってしまいました。こういうのって、多弁になればなるほどウサン臭さが増します。 ※環境によっては、フォームによる送信が不可能な場合もあるようです。その場合、お手数ですがメールにてご連絡ください。 ※過去にご参加いただいた方には、問答無用で送りつけますので覚悟してください。 ※メッセージ送信後、1週間経過して何らかのリアクションがない場合、送信トラブル等が考えられます。お手数ですが再度ご連絡ください。 ※基本的に、自己の 「年賀状送りたい願望」 をかなえるための企画ですので、 「交換」 を求めるものではありません。返信の要はお気になさらず。 ■企画要項 □手順 1.専用フォームにて、必要事項をチェック・ご記入の上、送信する。あるいはRanaさんに 「年賀状送りたまえメール」 を送る。 >>> 2.Ranaさんから 「ご参加ありがとうございますメール」 が届く。(交換してくださる場合)このメールにRanaさんの住所氏名を添付します。 3.Ranaさんにあなたの住所氏名をお知らせする(フォームで応募の場合この手順は不要)。 4.(交換してくださる場合)年賀状を買いましょう。 5.(交換してくださる場合)年賀状を書きましょう。 6.(交換してくださる場合)年賀状を投函しましょう。 7.元旦にご家庭に年賀状が届きます。郵便事故がない限りは。 8.「年賀状送りたい欲」 が満たされ、Ranaさん幸せ。 9.Ranaさんから届いた年賀状は、お年玉くじ抽選結果発表までは保存しておいてください。あとは煮るなり焼くなり。 10.めでたしめでたし。 □補記 1.このご時世、Ranaさんが信用に足る人物と認識されているのかどうかが問われている企画であるような気もします。 2.古き風習が廃れつつあるのを憂いているわけではないみたいです。 3.本企画を通じて知り得た個人情報は本企画の遂行(つまり年賀状送付)以外の目的には使用しません。漏洩しません。 4.日記の更新もままならないのに、年賀状の図案を考え、宛名書きをする余裕があるのかははなはだ疑問ですが、敢行します(退路を断っています)。 5.本企画が干支ひと回りするころには、Ranaさんは30代半ばです。同じテンションで続けられていれば素敵です。 以上。
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高校の修学旅行の行き先は東京で、3日目が自由行動だった。 僕らの班は何の迷いもなく、朝一から府中にある東京競馬場をめざした。担任に事前に提出した予定表では、府中市美術館に行くことになっていたのだけれど。わざわざ 「競馬場」 なんて正直に書いて目をつけられたくはない。 「自由」 と言いつつ別に自由じゃないことはみんな知っていたので。担任も担任で、 「男子高校生5人組が美術館」 だなんて絵にならない話を信用していたとは思えない。 京王線新宿駅に着いて、はたと困った。どうやら 「特急」 「準特急」 「急行」 「快速」 「各駅停車」 と、いろんな種類があるらしい。特急やら急行やらに乗ると特別料金を取られちまいそうな気がしたので、各駅停車に乗った。たっぷり1時間近くかかった。 平日。開催日ではないので、競馬場の周りは閑散としていた。場内に入ってターフを眺望することを夢見ていたのだけれど、門扉は閉ざされていて、すごすごと引き下がった。たとえ開いていたとて、学ランの僕らが入場するにはおおいに勇気を必要としただろう(未成年者も、入場するだけなら可)。 たとえ入場できずとも、競馬場の周りにいる、というだけで僕らは興奮していた。僕は、 「最初で最後の府中になるかもしれん」 と、目を見開いて風景を記憶しようとしていた。当時の僕は関西の大学に進学する希望を抱いていて、将来東京に住むことになるだなんて想像すらしていなかった。 競馬場周辺の空気を存分に吸い込んで、その勢いのままに僕らは隣接するJRA競馬博物館に入ってみた。入場無料なのがうれしいじゃないか。 世界の競馬の歴史をふり返る展示はちょっと退屈だったけど、名馬、名レースをビデオで見ることができるブースは、僕らを引きつけた。また、 「ライディング・ビジョン」 とかいう、ロボットの馬にまたがって騎乗体験できるコーナーは、僕らを喜ばせた。順番に背に乗り、ジョッキーよろしく鞭を振るうマネをしたり、ウイニング・ランをイメージして右手を高く突き上げてみたりした。この年ナリタブライアンという馬が、この東京競馬場でダービーを圧勝していた。新鮮な記憶に忠実に、気分は南井克巳騎手。 ああそうだ、さっきから僕ら僕らと言ってるけど、この5人中ひとりは競馬に何の興味もない男で、退屈だったろうにずーっと付き合ってくれていたのだった。貴重な自由時間の半分以上を。悪いことしたなあ。 ミュージアム・ショップで下敷きを買って、帰路。途中で急行だか特急だかに乗り換えることができるようだったので、おそるおそる乗り換えてみた。何のことはない、別に特急も各駅も料金は変わらないのであった。30分くらいで新宿に戻ることができた。なんだこの差は。朝、1時間もかけてしまったことが悔しく、もったいなかった。 京王線新宿駅をたびたび利用する現在の僕は、改札を通るたびに、そして特急・準特急・急行・快速・各駅停車、どれに乗ればいいのかを逡巡するたびに、このときのことを思い出す。さらにナリタブライアンに続く三冠馬が誕生した今日も、思い出したのであった。 |
その1 その2 とある人物のインタビューが、急遽決まりました。 どのくらい急遽かというと、翌日です。制作進行上、取材が前倒しになることは願ってもないことなのですが、それにしても翌日とは。 「スケジュールがぽっかり空いてしまいまして。明日おいでいただければ取材可能ですが、いかがですか?」 というマネージャー氏の言葉に、僕は即座に返答することができませんでした。準備、まったくできてなかったので。 「えー、あー、うー」 3秒ほど逡巡して、 「ありがとうございます! 伺わせていただきます!」 必要以上に元気に答えました。以前から重ねて取材依頼していた人物でしたから、ようやく受諾を得られたことに対する喜びももちろんありましたが、半ばヤケです。見切り発車です。アポイントメントは翌日の午後3時。あと24時間で、1時間取材できるだけのネタをそろえなければ。ひとり 『TWENTY FOUR』 !(スケールちっちゃい) なにせ 「取材できるとしても、1ヵ月くらい先だろう」 とタカをくくっていましたので、氏の最新の著作(書籍を何冊か出版してる)も、序盤しか読めていません。これを今晩中に読破しなければならないのに加えて、氏の過去のインタビュー記事にざっと目を通しておく必要もあります。閉館1時間半前の大宅壮一文庫(雑誌専門図書館。記者御用達らしい)に駆け込み、インタビュー掲載誌を10誌検索、斜め読みしました。 翌朝(=インタビュー当日)。 明け方までかかって著作に目を通していたため、ヘロヘロになりながら出社。あとは、午前中一杯かけて取材内容の構想をまとめなければ。と、そこへ社長。 「Ranaくん、この資料、昼までに整理しといてくれるか?」 「へ?」 「大丈夫だろ? な?」 「だ、大丈夫です……」 人間、大丈夫じゃないときほど、 「大丈夫です」 なんて言ってしまうものです。だいじょぶくない、ぜんぜんだいじょぶくないよ、ボス。 ということで、右手で資料整理しつつ(キーボード打ち)、左手で取材構成案のラフスケッチをノートに筆記するという、アクロバティックなことをしているうちに(たぶん、余計効率悪いです)、出発の時間に。うああ、もうメロメロ必至だ。 で、小一時間のインタビュー。 あれ? わりとうまくいったぞ? 帰路、インタビュー時の写真撮影を毎度おまかせしているカメラマン氏は、言いました。 「いやーRanaくん、いままでのインタビューで、いちばん面白かったよ!」 わからんもんです。どうやら、いつもより時間が足りなかったぶん、資料が少なかったぶん、危機感を抱いていたぶん、ふだん以上に集中した状態でインタビューに臨むことができたようです。火事場のなんとやら。無論、記事を書き上げるまでは気が休まらないんですが、まあなんとかなりそうです。よかったよかった。 ※
その昔、糸井重里さんのトークイベントのあとの質疑応答で、 「インタビュー術」 について訊いてみたことがあります。糸井さんは、次のようなことを語っていました(大意)。
「オレってできるぜ」 という意識は、えてして仕事のジャマをするものです。僕も最近、インタビューに慣れてきた部分があり、その慣れがインタビューの中身をつまらなくさせているように感じていました(それはインタビュー相手の問題ではなくて、話を引き出す僕の技量の問題であり、慣れによりもたらされるスキによって)。 今回、危機感に導かれた緊張感は、初インタビュー時のそれに似ていて、 「できる」 というヘタな錯覚を捨てさせてくれたように思います。 |
2005 :
01-03
04-06
07-09
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